番外編

        京都市電−北野線跡を訪ねる     2005/11/06


 京都市電がすべて姿を消してからでも四半世紀が過ぎています。

 1枚の記念乗車券が見つかりました。「北野線廃止記念乗車券」です。スタンプは「36.7.19」とあります。その年の7月31日で廃止されるのを惜しんだものです。

 北野線には、最後まで「チンチン電車」が走ってました。このかわいい電車に乗って京都駅から北野神社に行った記憶があります。今はどうなってるんでしょうか−。
 北野線の終着は北野でした。

 学問の神さま、菅原道真ゆかりの北野天満宮に石の大鳥居があります。
 「京都市電北野線記念碑」がありました。

 北野線の駅は、西陣警察署(向こう側)との間あたりにあったはずです。

 ここから下ノ森までわずかの区間を東南に向けて走ると一条通を東に、さらに七本松通から中立売通まで斜めに走って千本通と交差します。まっすぐ走って堀川通を越え、堀川の鉄橋(記念乗車券の絵柄になっている)を渡って、堀川の東側を下がります。四条までくると東に向きを変え、西洞院通でまた南に向かい、そのまま塩小路まで。そこを左に曲がれば京都駅です。
 日本初の路面電車は、明治28年(1895)に伏見−七条駅に走りました。同じ年に七条駅から木屋町を通り二条から現在の岡崎公園の内国博覧会場を経て蹴上まで開通しました
 さらに二条木屋町から二条通りを西へ、寺町通りを北上し丸太町通りまでが開通、さらに丸太町を西へ烏丸を北上し下立売通り府庁前までが開通、そして堀川通りを中立売間で開通しました。明治33年(1900)には北野線として中立売堀川から北野までが開通しました。
 一条通に面した北野線の車庫跡地には、京都市こども文化会館が建っています。
 北野商店街のアーケードを歩いていると、ユーモラスな電車のレリーフがありました。
 そうです、こんな台車ひとつ(車輪4個)にポールが前後2本という車両でした。
 七本松との交差点には「北野チンチン電車」の記念碑ありました。
 「上京区中立売通六軒町東入四番町」と記したいつもの仁丹の町名表記です。

 四番町がここなら、五番町は隣にあるはずです。
 「仁和寺街道六軒町東入五番町」の表記を見つけました。

 水上勉の小説「五番町夕霧楼」で知っている遊郭、五番町があったところです。
 あたりを歩いても、遊郭の名残はありません。

 カメラを構えていると「もう五番町の雰囲気はあまり残ってないよ」とお年寄りに声をかけられました。
 路地の奥に「千本日活」の看板。ロマンポルノを3本立てで上映してました。これもかつての歓楽街の名残なんでしょう。
  「千中(せんなか)}の交差点です。その昔には「千ブラ」という表現があったそうです。「銀ブラ」より前です。「千本商店街をブラブラ」の略です。いまでは想像出来ませんがね。

 堀川中立売にかかる「堀川第一橋」です。
 北野線はここで堀川を渡ってました。西側に残る鉄橋の跡です。
 こちらは東側の鉄橋の跡です。
 記念乗車券の絵柄は、ここ架かっていた鉄橋を渡るチンチン電車を写しているのです。
 現在の堀川は、ご覧のとおりコンクリートの溝になって南に流れています。
 北野線はここから堀川の東側を走っていました。
 御池から南の堀川は埋め立てられています。ここを北野線は走っていたのです。

 左側のレール(青色)は共用でした。

 四条通です。

 京都電気鉄道(京電)として誕生した北野線(狭軌)と、京都市電(標準機)が併行していました。この区間はレールが3本あって、左側の1本は共用でした。不思議な思いをしたものです。

 そういえば、小田急と箱根登山鉄道が併行する小田原−箱根湯本間は、今でも3本レールですね。
 四条通から下洞院通にカーブして、この細い通りを北野線は走ってました。
 もう一枚の記念乗車券には「明治29年開通当日の電車」の説明があります。