紋屋図子と西陣あたり (2005/10/22)
 紋屋図子(もんやのずし)と西陣あたりを歩きました。

 堀川四条から乗ったバスは、観光客でいっぱい。昼からは時代祭を見ようというわでしょう。

 観光客の半分は「二条城」で下車しました。外国人も何人かいました。残り半分は「一条戻り橋」で。言わずと知れた目的地は阿倍晴明神社でしょう。 
 堀川今出川でバスを降り、そのまま堀川通を上がると、最初の角に「山名宗全邸址」の石碑がありました。
 山名町を西に入ると、北側に「山名宗全邸宅跡」という自然石の碑がありました。立て札を読みますとざっとこんな具合です−
 
 山名宗全(1404−1473)は、足利将軍、義政の後継をめぐり、この邸宅を本陣に、室町今出川の花の御所を本陣とする細川勝元と11年に及ぶ戦を展繰り広げた。応仁の乱である。都は焦土化し、山名邸の消失した。このあたりを西陣と呼ぶのは、宗全が御所の西に陣を張ったことに由来する。
 きょうの目的地、紋屋図子です。

 べんがら格子の家が何軒か続いています。


 
 紋屋図子は織物の図案である紋意匠図を作る職人が集まっていたからこの名前が付きました。
 遊墨漫画家、南久美子さんの「遊墨画工房」です。
 全長50メートルほどの図子ですが、もう少し西側まで歩くと、どうっといったことがない街並みです。ライブドアに買収された通販大手ショップ代理店の赤い看板が不釣り合いに目立ちすぎるようです。
 図子の中央あたりから北に15メートルほど伸びる三上家路地です。突きあたりが三上家です。かつてこの長屋に職人達を住まわせていたそうえすが、今は陶芸家や写真家らが住んでいるようです。
 三上家の玄関から、路地の先の図子を眺めたところです。
 江戸中期の宝暦年間には有職織物師の御寮織物司六家のうちの五家までが紋屋町棲んでいたそうです。御寮織物司というのは室町後期より宮中に収める有職織物を取り仕切った織元のことで、御寮織物司は紋屋と呼ばれました。三上家は紋屋町に現存するただ1軒の紋屋だそうです。
 紋屋図子の大宮通側を上がったところに京料理の「萬重(まんしげ)」がありました。ここで会食したことがあります。通りに面した間口は狭いですが、奥はL字型になっていて、多くの有名絵画を飾っていました。

 
 知恵光院通からみ見た図子。紋屋図子の名前がなければ、どこにでもある路地です。電柱ばかりが目立ちます。
 雨宝院(西陣聖天宮)です。
 
 境内の歓喜桜は有名です。
 本隆寺の築地です。土塀に瓦が埋め込まれています。等間隔にぶら下げられた布は何なんでしょう?
 浄福寺通の寺之内−上立売間は、きれいな石畳になってます。周りの町家もきれいに修復されています。
 「織成館」は、西陣の帯製造業「渡文」の店兼自宅を改造したもので、西陣織の展示館になっています。
 
 隣の佐命舎では「今出川に路面電車を走らせる会」の公開討論会も開かれていました。

 そういえば、その昔、今出川通には銀閣寺−天王町−円町−白梅町を長方形に走る「22番」の市電が走ってましたね。

 ちょっと首を横向けて眺めました。西陣の案内マップです。左側が北なので、横に向けたようです。
 京都の町家は、屋根の棟を通りに平行に構える平入り形式です。

 鉾参通にある歴史的意匠建築物の「やすだ」は、隣がガレージで妻側の様子もよくわかります。
 昼飯を食べた「西陣ほんやら洞」の隣は、「宮内庁御用達」という布団店でした。
 西陣考古資料館の前に立つ「西陣」の石碑。

 建物は旧西陣織物館。たしか「Gewandhaus」といったはずです。織物会館。ドイツ・ライプツィッヒのゲバントハウスはコンサートハウスとなり、その名を冠したオーケストラも有名です。
 有名な帯屋捨松です。

 
 屋根には鍾馗さんがいました。

 鍾馗さんを訪ねるツアーというのも楽しそうです。