ベロラードまで22.5kmのステージ。ラ・リオハ州からカスティージャ・イ・レオン州に入った。相変わらず黄色い変化のない大地を進む。
窓飾りがきれい。
ヒマワリが満開。巡礼路に近い花には、いたずらが。
ベロラードまで22.5kmのステージ。ラ・リオハ州からカスティージャ・イ・レオン州に入った。相変わらず黄色い変化のない大地を進む。
窓飾りがきれい。
ヒマワリが満開。巡礼路に近い花には、いたずらが。
ナヘラの町を出ると、すぐに辺りは真っ暗になりました。ヘッドライトの明かりを頼りに、黄色い矢印に沿って歩きました。
巡礼路には、巡礼のシンボルであるホタテ貝をデザインした道しるべや、モホンと呼ばれる石柱がいたるところにあります。さらに要所要所には黄色いペンキで矢印が描かれてます。これをたどっていくと、地図なしでもサンティアゴ・デ・コンポステーラに到着できそうな気になってしまいそうでした。
その矢印を真っ暗ないなか道で見失ったのかなと不安になり始めたときです。背後からひとつのヘッドライトが追ってくることに気づきました。独りではないという安心感もあって、そのまま歩き続けました。
やがて空が白みだして、次の村に着きました。そこは巡礼路からは外れた村のようでした。後ろからついてきたヘッドライトの主は、なんと出発地のサンジャン・ピエ・ド・ポーの1晩目のオステルでわたしが眠った2段ベッドの上段にいた台湾のお嬢さんでした。
サンジャンのオステルはドミトリー(相部屋)でした。しかも男女の区別はありません。2段ベッドが2つ置かれた部屋で、上段がその彼女、もう1人はフランス人女性でした。日本でも山小屋やテント泊なら男女一緒もあたり前で過ごした経験はありますが、ちょっとどぎまぎとしました。
その彼女は、流ちょうな日本語で話しかけてきましたが、わたしの対応はどうだったのでしょう。初めてのドミトリーに緊張していたせいばかりではないはずですが、なんとなく打ち解けることもありませんでした。その後も、何回か話す機会はあったはずです。
巡礼路からは外れた村に着くと、彼女は流ちょうな英語で道を確認して、すたすたと新たな方向に独りで歩いていきました。
わたしは、やれやれと村のバルに腰を落ち着けてコーヒーを頼みました。ガイドブックを開け、やがてやってきた若い男性に「ここはどこ?」と聞き、やっと現在地がアレサンコという村であることを確認しました。
彼女とは、その後も顔を合わせる機会がありました。でも、「道を間違えてゴメン」と素直に謝れなかったのが、ちょっと心残りです。
長い巡礼路でしたが、道に迷ったのはあと1回くらいでした。そのときは、「Maps.me」というGPSを利用したスマホアプリのおかげで、リカバリー・ルートを見つけることができました。
サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダまで22kmほど。途中には村が2つしかないという単調な道の連続。ところが、ナヘラを出た真っ暗な道で、黄色い矢印を見失った。着いたのは巡礼路とは違った村。リカバリールートを歩いているうちに朝日が上った。
小麦畑が続く丘を超えた。
夕飯は、単品で頼んだローストビーフ。
ナヘラでは簡単ピザで夕食です。お相手は、ちょっと違うものをとサングリア。周りがみんな飲んでいて、名物だったのかも。赤ワインがベースですが、さっぱりとしていて、火照った体らにぴったりです。
グラスにプリントされた規定量の50CLのラインをオーバーしています。合格です。
CLはセンチメートル・リットルの略。50CLは500MLと同じです。日本では使われない単位。
隣の席も、大の男がみんなサングリア。
ストローが2本というのは微妙です。
ピザはカリッと焼いてあります。
四角いピザって、日本では珍しいです。
満足の顔です。その理由は-。
風海(ふみ)さんと飲んでます。サン・ジャン・ピエ・ド・ポーの洗濯干し場で出会ったのが最初。数日ぶりです。日本語でゆっくりと話しました。ありがとう。
9日目も古都・ナヘラまで30kmほど。これくらいの距離は慣れてきた。
大きな貯水池に野鳥の姿が。
この日も乾ききった。コーラがうまかった。
なだらかな坂道を下って次の村に向かった。
ナヘラでは簡単ピザで夕食にしました。お相手は、ちょっと違うものをとサングリアでした。周りがみんな飲んでいて、名物だったのかもしれません。赤ワインがベースですが、さっぱりとしていて、火照った体らにぴったりでした。
グラスにプリントされた規定量の50CLのラインをオーバーしています。合格でした。CLはセンチメートル・リットルの略です。50CLは500MLと同じことです。日本では使われない単位でした。
隣の席も、大の男がみんなサングリアでした。
ストローが2本というのは微妙です。
ナヘラのレストランのテラスでいつものように独りでサングリアを飲み、ピザをかじっていました。そこに、ふみさんが独りで歩いてきました。「よかったら一緒する」と呼び込みました。もう夕食は済ませていたそうで、ビールを頼みました。
話し相手ができて、楽しい夕食になりました。東京の私立大学の4年生でした。就職も決まり、もうしばらくは巡ってこないであろう長い休暇を、だれにも頼らずに独りで旅したかったそうです。
ふみさんと初めて出会ったのはスタート地点のサン・ジャン・ピエ・ド・ポーのドミトリーのちょっとジメジメとした屋内洗濯場でした。翌日からの巡礼を前に慣れぬ手つきでその日、着ていたTシャツや下着を洗濯して、ロープに吊るしていました。後からやってきたふみさんも同じことを始めました。わたしの娘よりずっと若いお嬢さんが、目の前でその下着を洗い、すぐ近くのロープに干しました。ちょっとどきりとした瞬間でした。
「食事、自炊するのでいっしょに食べますか」。親切にも誘ってくれましたが、わたしは近くのレストランに出かけました。
次の日は、ピレネーを越えて、ロンセスバージェスの1軒だけの宿泊施設である修道院アルベルゲに泊まりました。1時間ほどするとふみさんもやって来ました。顔を合わせるなり、「ああ、疲れた。バテました」と話しかけてきました。
巡礼2日目のスブリでは別のアルベルゲでしたが、村の通りで出会いました。「台湾人とオランダ人の3人で歩いているの」と、元気そうでした。
その程度の会話でしたが、この巡礼で最初に親しくなったペルグリーノがふみさんでした。
13日目。アタプエルカの峠にある木製の十字架を通り過ぎると、カステージャ地方が一望できる見晴らしポイントがありました。カメラを構えていると、ふみさんが後ろから声をかけてきました。ブルゴスまでの暑くて長い道を話しながら下りました。
その前後にも何回も出会い、並んで歩きました。独り歩きの巡礼ですが、1日に歩く距離はよく似ています。縁がある人とは何度も顔を合わせることになるのです。「カミーノ・マジック」という呼び方もあります。
オレンジ色の目につくザックの女性が前を歩いていると、ふみさんかなと思わず速度をあげたこともあります。2週間も独りで歩いていると、さすがに人恋しくなっていたのでしょう。
でもいつが最後だったのか。若くて元気なふみさんは先に行ってしまい、巡礼の中盤以降には、もう会うことはありませんでした。
一期一会といいます。その言葉通りに、偶然知り合った人に何度も出会い、「またね」のつもりがいつの間にか「さようなら」になってしまっていて、再び顔を合わす機会がなくなっていることもあるのです。