町をぶらぶらと歩いて宿に帰ってきました。おもちゃ屋で目が釘付けになりました。
ブリキの2CVが並んでます。欲しい! たった1000円ほどです。かといって、あと一カ月もザックに背負うわけにはいきません。涙をのみました。
こんなのも見かけました。花屋の店頭です。
こちらではシトロエンが幅をきかせています。C4(わたしのクルマ)にも当たり前に出くわします。
ナヘラの町を出ると、すぐに辺りは真っ暗になりました。ヘッドライトの明かりを頼りに、黄色い矢印に沿って歩きました。
巡礼路には、巡礼のシンボルであるホタテ貝をデザインした道しるべや、モホンと呼ばれる石柱がいたるところにあります。さらに要所要所には黄色いペンキで矢印が描かれてます。これをたどっていくと、地図なしでもサンティアゴ・デ・コンポステーラに到着できそうな気になってしまいそうでした。
その矢印を真っ暗ないなか道で見失ったのかなと不安になり始めたときです。背後からひとつのヘッドライトが追ってくることに気づきました。独りではないという安心感もあって、そのまま歩き続けました。
やがて空が白みだして、次の村に着きました。そこは巡礼路からは外れた村のようでした。後ろからついてきたヘッドライトの主は、なんと出発地のサンジャン・ピエ・ド・ポーの1晩目のオステルでわたしが眠った2段ベッドの上段にいた台湾のお嬢さんでした。
サンジャンのオステルはドミトリー(相部屋)でした。しかも男女の区別はありません。2段ベッドが2つ置かれた部屋で、上段がその彼女、もう1人はフランス人女性でした。日本でも山小屋やテント泊なら男女一緒もあたり前で過ごした経験はありますが、ちょっとどぎまぎとしました。
その彼女は、流ちょうな日本語で話しかけてきましたが、わたしの対応はどうだったのでしょう。初めてのドミトリーに緊張していたせいばかりではないはずですが、なんとなく打ち解けることもありませんでした。その後も、何回か話す機会はあったはずです。
巡礼路からは外れた村に着くと、彼女は流ちょうな英語で道を確認して、すたすたと新たな方向に独りで歩いていきました。
わたしは、やれやれと村のバルに腰を落ち着けてコーヒーを頼みました。ガイドブックを開け、やがてやってきた若い男性に「ここはどこ?」と聞き、やっと現在地がアレサンコという村であることを確認しました。
彼女とは、その後も顔を合わせる機会がありました。でも、「道を間違えてゴメン」と素直に謝れなかったのが、ちょっと心残りです。
長い巡礼路でしたが、道に迷ったのはあと1回くらいでした。そのときは、「Maps.me」というGPSを利用したスマホアプリのおかげで、リカバリー・ルートを見つけることができました。
サント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサーダまで22kmほど。途中には村が2つしかないという単調な道の連続。ところが、ナヘラを出た真っ暗な道で、黄色い矢印を見失った。着いたのは巡礼路とは違った村。リカバリールートを歩いているうちに朝日が上った。
小麦畑が続く丘を超えた。
夕飯は、単品で頼んだローストビーフ。