江戸時代の京ツアーガイド「京城勝覧」(貝原益軒)の第九日は、「高雄槇尾栂の尾に行道」です。
きょうはちょっと天気も悪そうなので、第十日「八幡山にゆく道」を先取りしました。石清水八幡宮がある八幡までは、わが家から歩いてでも行ける距離ですが、車で麓を巡りました。
京城勝覧では『男塚女塚あり。女郎花(おみなえし)の名所なり』と記されています。
その女塚、通称「女郎花塚」は、石清水八幡宮の南にある「松花堂庭園」の中に残ります。
傍らに咲くオミナエシです。秋の七草のひとつですが、実際には夏から咲いていて、もうお終いです。
謡曲「女郎花」について説明されていました。
静かな松花堂庭園を一周しました。
江戸時代初期の文化人、松花堂昭乗が当初『石清水八幡宮』の境内に造った草庵「松花堂」などを明治になって移築した回遊式庭園です。
あちこちに茶室があります。
ただし、「松花堂」がある内園は、3年前の大阪北部地震の被害を受けて、修復のために閉鎖中でした。
椿園には、いろんな椿があります。今は花はありません。
土産店は「おみなえし」という店名でした。
入園料は100円でした。
隣には、松花堂弁当が食べられる「京都吉兆 松花堂店」があります。ただし、本日はまだ閉まっていました。開いていても、5000円オーバーの弁当です!
「京都吉兆 松花堂店の松花堂弁当」はコチラ。
この辺りの住所は「八幡女郎花」です。
東高野街道を1.5キロほど北に戻り、八幡市図書館へ右折した路地です。
アスファルトに埋もれかけて、「小野頼風塚」の石碑が立っています。
民家の間をすり抜けたところにある『男塚』、通称「小野頼風塚」です。
芦は女塚の方にたなびくので「片葉の芦」と呼ばれるそうです。残念ながら、雑然と茂ってました。
東高野街道は高野街道につながり、高野山に達します。さらに小辺路を熊野神社まで歩いたことがあります。
男女は『放生川』に身を投げまし。
左の鳥居が、『山下にも高良(たから)のやしろ有』と記された高良神社です。
車で走れば10分ほどの橋本までやってきました。大坂と京都を結ぶ京街道の中間にあり、石清水八幡宮の参詣口としてもにぎわった町です。
コインパーキングに駐車して京阪電鉄の踏切を渡ります。向こうには、雑草の茂る空き地がありました。
こちらは3年前の資料写真です。友だちと折り畳み自転車、DAHONで走ったことがります。
橋本遊郭の歌舞練場だった立派な2階建てが残っていました。すでにツタで覆われていますが、朽ちて撤去されたようです。
そのときに教えてもらった西遊寺の門前の石碑です。
「湯沢山茶九蓮寺」と彫られています。
山崎の合戦の折、立ち寄った羽柴秀吉が茶を所望したところ、洞ヶ峠を決め込んだ寺は、湯だけを提供したそうです。そこで秀吉の命名です。「ゆ たくさん、ちゃ くれん 寺」
ちょっと見には、古い街道筋の風情です。
こんなに装飾を施しているのは民家ではありません。
今は旅館になっています。営業を続けている店は、多くはありません。
軒下に残る電燈照明の跡です。これが遊郭だった名残です。
渡し場の跡です。
柳谷観音、山崎、愛宕と対岸の地名が並びます。
淀川堤防から町並みを振り返ります。
正面が天王山です。アサヒビール大山崎山荘美術館の赤い屋根が見えます。
西を向くと、水無瀬のわたしの住むマンションも見えています。
京阪橋本駅前の食堂で昼飯を食べて帰宅しました。