雲ヶ畑山歩き俱楽部 雪の惣谷林道から惣谷山

 「雲ヶ畑山歩き俱楽部」の2月例会に参加。京都北山の惣谷(そうだん)林道から惣谷山へ。さらに林道を詰めてオ梅谷林道を下りました。
 ルートの大部分が林道、これといったビューポイントもない初めてのルートでした。そこが積雪に覆われて一転していました。気温が上がり青空が広がる好天気もあって、素晴らしい山歩きとなりました。

 【2026/02/14 09:19】
 京都・北大路から「もくもく号」に乗って熊ヶ畑・厳島神社までやってきました。

 厳島神社の由緒に関してリーダーの説明を受けました。

 惣谷林道に入ります、

 谷川沿いの林道を登ります。すでに足元は積雪です。

 作業小屋を横目に進みます。

 倒木が道をふさいでいました。メンバーがノコギリを取り出して伐採しました。こんな光景、初めて目にしました。

 林道を進み、惣谷山との分岐までやってきました。予定より時間がかかりました。ピークをピストンするか迷いましたが、折角なので⋯。

 尾根筋には積雪が少なく助かりました。

 惣谷山に初登頂です。展望はありませんでした。

 三角点もありました。

 メンバーで記念撮影。

 戻る途中に、キツツキのお仕事を拝見しました。別のポイントで作業中の音を聴くこともできました。

 分岐まで戻って陽だまりで昼飯となりました。風もなく、暖かでした。

 即席の豚汁にポットの熱湯を注ぎました。やはり温かいのがうれしいです。

 こぶりなおむすびのセットもおいしかったです。

 バレンタインデーです。女性メンバーからかわいいチョコレートをいただきました。

 サルトリイバラが真っ赤な実をつけていました。

 足跡一つない雪道を進みました。

 イワナシが早くも蕾をつけています。

 【参考画像】
 昨年4月、小塩山に咲いていたイワナシです。こんなのが一面に咲きそうです。シーズンにまたやって来たくなりました。

 視界が開けました。向こうに桟敷ケ岳がそびえていました。

 魚谷四つ辻までやって来ました。ここからオ梅谷(おうめだん)林道を下ります。スリップしないようにチェーンスパイクを装着しました。

 ズボッとヒザ下まで潜る雪道を一気に下りました。

 祖父谷峠に通じる林道まで下ってきました。やれやれでした。

 「雲ヶ畑・足谷 人と自然の会」のホームベース、足谷小屋で一休みです。

 薪ストーブが焚かれ、温かなコーヒーがふるまわれました。

 岩屋橋まで降りてきました。でもわかっていたことですが朝夕1便のもくもく号には遅刻でした。

 スタート地点の厳島神社にゴールしました。車でやって来たメンバーの2台がピストンして西賀茂まで送ってくれました。ありがとうございます。

「京童」と歩く 2日目 清水から新熊野へ

 京都初の観光ガイドブックともいうべき「京童」に導かれて歩く2日目です。
 清水、六波羅、三十三間と回って新熊野まで歩きました。
 節分会の八坂神社では福豆と福引の清酒をいただき、法住寺ではぜんざいをよばれました。
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「京童」と歩く 1日目 内裏から東山へ

 「京童」は明暦4(1658)年に刊行された京都で最も古い案内記です。洛中洛外の名跡仏閣の由来、伝説などを挿絵や筆者の中川喜雲自作の狂歌を交えながら記しています。
 国会図書館の国書データベースなどで閲覧できます。でも古文書が読めません。日本語なのに。
 残念ですが、そこに記されたポイントを自分の足で歩いてみました。
 寒い一日でした。内裏(御所)からスタートしました。

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京都を歩く 京都電鉄が走った木屋町線 新寺町の謎

 新寺町通の謎ーが解けました。 
 日本で初めての営業電車、京都電気鉄道(京電)の木屋町線が走った跡をたどりました。現在のJR京都駅から木屋町ニ条の間です。
 河原町五条の手前に、右に折れてすぐに五条に突き当たる不自然とも思える短い道があります。新寺町通という立派な名称がありました。
 明治28(1895)年の開業当時は、ここを京電が走っていたのです。拡幅された河原町を京都市電が走ったのは、ずっと後の時代でした。 

 五条を渡ったところに「牛若ひろば」があります。高瀬川が広い五条の下を流れる入り口の壁面にレンガが張り巡らされています。
 これが数少ない京電の遺構でした。このレンガ積は、京電の路面の橋脚だったのです。

 木屋町線の起点となる京都駅の東、塩小路東洞院の南西角に「電気鉄道事業発祥地」の碑が立っています。ここから歩き始めました。

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京都・木屋町 日本映画発祥の地は京都電燈創業の地

 京都・木屋町の高瀬川に面した立誠(りっせい)小学校の跡地に「日本映画発祥の地」の案内板が立っています。その説明文に気になる会社名があるのことに気づきました。ここに京都電燈株式会社があったのです。
 菱形雷紋を社章とした京都電燈は明治22(1889)年、この地に社屋を建て、敷地内に石炭火力発電所を設けて電力事業を始めたのです。

 明治30(1897)年になった、京都電燈の中庭でフランス帰りの技師、稲畑勝太郎(稲畑産業創業者)によって映画が上映されました。

 高瀬川沿いにあった京都電燈の火力発電所とされる写真です(ネットよりDL、出所不明)。

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京都を歩く 嵐電・北野線100周年と幻の北野駅

 嵐電(京福電気鉄道)の北野線は大正14(1925)年、京都電燈によって北野ー高雄口(現・宇多野)間が開業しました。ことしで100周年を迎えました。
 新型車両の「KYOTRAM(きょうとらむ/モボ1型)」も今春、デビューしました。100周年のヘッドマークをつけて宇多野のホーム脇の残り紅葉を横目に走りすぎました。
 暖かな一日でした。嵐山本線から北野線が分岐する帷子ノ辻(かたびらのつじ)から10駅、北野白梅町まで3.8キロをカメラ片手に歩きました。

 冬枯れの鳴滝ー宇多野間です。桜のシーズンにはピンクのトンネルとなります。

 帷子ノ辻では、100周年写真展が開かれていました。どれも見入るような嵐電の歴史が詰まっていました。
 今はない北野駅を撮影したパネルもありました。

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京都を歩く 京都電燈の水力、火力と叡電100年

 京都電燈は、路面電車の京都電気鉄道(京電)に電力を供給する一方、自らも電鉄を経営しました。
 大正14(1925)年に開通させた叡山電気鉄道平坦線で、出町柳と八瀬(現八瀬比叡山口)を結びました。今年で開業100年です。
 八瀬比叡山口のターミナル特有のドーム状の屋根は、開業当時そのままです。 

 駅の山手に、京都電燈が明治33(1900)年に完成させた高野水力発電所の水門が残っています。

 叡山ケーブルも京都電燈が叡山電気鉄道部の鋼索線として平坦線と同じ大正14(1925)年、西塔橋(現ケーブル八瀬) – 四明ヶ嶽(現ケーブル比叡)間で開業させています。

 八瀬から叡電-京阪と乗り継いで京都・伏見の中書島までやってきました。ここには京都電燈の伏見発電所として建設されたレンガ造りの火力発電所の建屋が今も残っています。

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京都を歩く 疏水ダムと京都電燈の「菱形雷紋」

 京都電気鉄道(京電)の路線跡を歩きました。4日前のことです。
 京電当時の路線図(注)を見ていると、木屋町二条で右折して蹴上を目指した鴨東線に、「疏水ダム」(赤線)と読める停留所があります。町中のそんなところにダムが?
 それが京電に電力を供給し、現在も発電している疏水の夷川発電所だったのでしょう。もう一度、京都を歩きました。 

 京都電燈という電力会社が送配電していました。社章は稲妻からデザインされた「菱形雷紋」でした。
 その社章がくっきりと残る点検蓋が、寺町三条近くの路面に残っていました。

 ここにも隠れていました。千枚漬がカラーペインティングされた嵐山行きの嵐電(京福電鉄)の車体です。
 京福電鉄は、京都電燈を親会社として誕生し、菱形雷紋を継承しています。

 京都電燈のすごさは、このビルをみればわかります。
 京都駅前にある京都関電ビルディングは、現在は関西電力の京都支社です。これが京都電燈の本社ビルとして1937年に建設されました。

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京都を歩く 続・「木製仁丹看板」を追って

 「木製仁丹看板」を追って、再び京都を歩きました。小雨も混じった前回とは違って秋らしい気持ち良い天気でした。
 東本願寺の北西の裏手あたりの立派な民家に掲げられた「下京区新町通花屋町下東若松町」です。
 ネット上の古い画像とは設置場所が違っているようです。民家の壁などを改修したときに、よく見える正面にもってきたようです。誇らしげにみえます。 

 四条烏丸に近い「下京区佛光寺通烏丸東入下ル匂天神町」です。カメラの設定がズレて、モノクロになってしまいました。

 3枚目は川端御池の東側。「上京区新麩屋町通仁王門下る大菊町」です。
 長屋の路地の前、お地蔵さんに隠れるように残っています。仁丹の文字とカイゼル髭のトレードマークも鮮やかです。

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京都を歩く 「木製仁丹看板」を追って

 「木製仁丹看板」を追って、京都の町を歩きました。
 仁丹町名看板とか仁丹町名表示板とも呼びます。京都人なら、あれあれと、ご存知と思います。大阪に本社を置く「森下仁丹株式会社」が明治43(1910)年から広告も兼ねて町の辻々に掲げた町名表示板のことです。今も500枚以上が残っているそうです。白いホーロー(琺瑯)製 「木製仁丹看板」を追って、京都の町を歩きました。
 仁丹町名看板とか仁丹町名表示板とも呼びます。京都人なら、あれあれと、ご存知と思います。大阪に本社を置く「森下仁丹株式会社」が明治43(1910)年から広告も兼ねて町の辻々に掲げた町名表示板のことです。今も500枚以上が残っているそうです。
 白いホーロー(琺瑯)製の板に青字と赤いアクセント、カイゼル髭の紳士とお馴染みの看板の他に、もっと古くに設置された「木製」の看板もあることを知りました。
 ありました。四条烏丸近くの膏薬辻子(図子、こうやくずし)にある商家の上に「新釜座町」とかかっていました。小雨が降っていたので、レンズが水滴をかぶっていたのでしょう。画像が乱れています。

 2枚目は、古い商家の柱と同化しているような「東魚屋町」です。上部に仁丹と書かれているのが読み取れます。

 ホーロー製の仁丹看板にもバージョンがあります。
 仁丹のマークが上部にある方が古いのでしょう。中京区は現代風に左から、上京区は右から書かれ、区も旧字体です。

 鮮やかな看板もありました。「慈眼庵町」ですが、レプリカでした。

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