江戸時代の京都ガイドブック「京童」とともに歩くわたしの6日目は、下鴨神社から革堂までコースでした(25日)。
本満寺の大きな枝垂れ桜が、見ごろを迎えていました。
「京都人の密かな愉しみ」(NHK-BS)の「桜散る編」にも登場したのを覚えています。
ぐるりと取り囲むようにカメラやスマホの列です。
流れ落ちるように咲き競う花々です。あいにく曇り空で、ちょっと光線不足だったのが残念でした。
江戸時代の京都ガイドブック「京童」とともに歩くわたしの6日目は、下鴨神社から革堂までコースでした(25日)。
本満寺の大きな枝垂れ桜が、見ごろを迎えていました。
「京都人の密かな愉しみ」(NHK-BS)の「桜散る編」にも登場したのを覚えています。
ぐるりと取り囲むようにカメラやスマホの列です。
流れ落ちるように咲き競う花々です。あいにく曇り空で、ちょっと光線不足だったのが残念でした。
「雲ヶ畑山歩き俱楽部」の例会でした。
その昔。雲ヶ畑から京の都に花や柴を運ぶために往来した人々の道をたどります。氷室までの道は、昨年暮れに歩いています。その続きで、氷室から長坂越を下りました。
京見峠の茶屋は閉じられて久しいです。軒下に置かれている床几に腰掛けて冷たいビールを飲んだのは、もう20年も前のこととなりました。
1周間前に下見をしてくれたメンバーによると、「イワナシが、もう咲いてるかもしれない」という話でした。
期待しましたが、このところの冷え込みのせいもあってか、蕾は堅いままでした。
ピークハントとは一線を画したグループです。でも、城山に回り道しました。
長坂越を下り、鷹峯の千束まで降りてきました。
このまま進むと、豊臣秀吉が築いた御土居の京七口のひとつ、長坂口に行き着きます。でも鷹峯をゴールとしました。
江戸時代の京都ガイドブック「京童」とともに歩くわたしの5日目は、平野神社から北野天満宮、今宮神社、上賀茂神社の8キロほどのコースでした。
花粉症がひどくて鼻ずるずるでした。転地療法しようと出かけました。
ここ数日の寒さにもかかわらず、平野神社の桜は膨らみ始めていました。もうすぐ春ですね。
江戸初期に中川喜雲によって書かれた京都初の観光ガイドブック、「京童」とともに歩く4日目です。
西大路から島原ー壬生寺ー神泉苑と巡って二条城まで歩きました。
二条城の東にある御金(みかね)神社の昨日の大行列を思い出しました。病院への途中に車から見た行列は、西洞院から御池にはみ出し、御池にそって50㍍ほども延びてました。
きのう5日は、天赦日、一粒万倍日、寅の日、大安と4つの吉日が重なる、日本の暦の中でも特に縁起が良いとされる日だったのです。
きょうは、混雑はありませんでしたが、残り福でも転がってないかとお参りしました。
壬生寺は新選組の屯所があった地でもあります。お嬢さんたちは、毛糸の帽子をかぶせた人形にスマホをかざしていました。近藤勇ってことはないでしょう。沖田総司? それともわたしの知らないキャラクターでしょうか。
室町を下がると、テレビでお目にかかったばかりの光景でした。欠かさず見ている「京都人の密かな愉しみ~継承」(NHK-BS)のロケ地となっていた帯匠の誉田屋源兵衛でした。
江戸初期に中川喜雲によって書かれた観光ガイドブック、「京童」とともに歩く3日目です。
泉涌寺から五条まで戻ってくる道は省いて、五条大橋を出発、因幡薬師から五条天神、東西本願寺と巡り東寺、西寺でゴールとしました。
寒さが和らいだ都路を13キロほど歩きました。
「雲ヶ畑山歩き俱楽部」の2月例会に参加。京都北山の惣谷(そうだん)林道から惣谷山へ。さらに林道を詰めてオ梅谷林道を下りました。
ルートの大部分が林道、これといったビューポイントもない初めてのルートでした。そこが積雪に覆われて一転していました。気温が上がり青空が広がる好天気もあって、素晴らしい山歩きとなりました。
京都初の観光ガイドブックともいうべき「京童」に導かれて歩く2日目です。
清水、六波羅、三十三間と回って新熊野まで歩きました。
節分会の八坂神社では福豆と福引の清酒をいただき、法住寺ではぜんざいをよばれました。
続きを読む 「京童」と歩く 2日目 清水から新熊野へ
「京童」は明暦4(1658)年に刊行された京都で最も古い案内記です。洛中洛外の名跡仏閣の由来、伝説などを挿絵や筆者の中川喜雲自作の狂歌を交えながら記しています。
国会図書館の国書データベースなどで閲覧できます。でも古文書が読めません。日本語なのに。
残念ですが、そこに記されたポイントを自分の足で歩いてみました。
寒い一日でした。内裏(御所)からスタートしました。
新寺町通の謎ーが解けました。
日本で初めての営業電車、京都電気鉄道(京電)の木屋町線が走った跡をたどりました。現在のJR京都駅から木屋町ニ条の間です。
河原町五条の手前に、右に折れてすぐに五条に突き当たる不自然とも思える短い道があります。新寺町通という立派な名称がありました。
明治28(1895)年の開業当時は、ここを京電が走っていたのです。拡幅された河原町を京都市電が走ったのは、ずっと後の時代でした。
五条を渡ったところに「牛若ひろば」があります。高瀬川が広い五条の下を流れる入り口の壁面にレンガが張り巡らされています。
これが数少ない京電の遺構でした。このレンガ積は、京電の路面の橋脚だったのです。
木屋町線の起点となる京都駅の東、塩小路東洞院の南西角に「電気鉄道事業発祥地」の碑が立っています。ここから歩き始めました。
京都・木屋町の高瀬川に面した立誠(りっせい)小学校の跡地に「日本映画発祥の地」の案内板が立っています。その説明文に気になる会社名があるのことに気づきました。ここに京都電燈株式会社があったのです。
菱形雷紋を社章とした京都電燈は明治22(1889)年、この地に社屋を建て、敷地内に石炭火力発電所を設けて電力事業を始めたのです。
明治30(1897)年になった、京都電燈の中庭でフランス帰りの技師、稲畑勝太郎(稲畑産業創業者)によって映画が上映されました。
高瀬川沿いにあった京都電燈の火力発電所とされる写真です(ネットよりDL、出所不明)。