阪急電鉄・今津線は「片道15分の奇跡」が起こります。それに反して南海電鉄・汐見橋線(正確には高野線の一部区間)は、「片道9分」なにも起こりませんでした。
一度、乗ってみたいと思っていた汐見橋線です。堺市内の出先に向かうときは、いつもは南海・難波から急行に乗ります。きょうは時間があったので、地下鉄・千日前線で一つ手前の桜川で下車。南海・汐見橋駅から向かいました。
がらーんとしたターミナルです。正面には大きな「南海沿線観光図」がかかってますが、色あせて一部は剥離しています。ごていねいに「昭和30年代のものです」という説明がついてます。
阪神・桜川駅の入口と並んでます。とはいえ乗り換え客は多くはありません。
平日も土日も、毎時10分と40分に発車します。まことに潔い時刻表です。
1900年(明治33年)、当時の高野鉄道が大小路駅(現堺東駅)から延伸した際の終着駅にあたる道頓堀駅として開業しました。
頭端式(島式)1面2線のホームがあります。
それにしても木製ベンチが時代を感じさせます。「紳士の憩いの場 パチンコ クイン」の電話局番は2ケタです。
ホーム屋根の柱は古いレールを再利用しています。どこかに刻印は残っていないかと見ていると-
「OH.TENESSEE-6040-ASCE-5-1922」と読めます。一部、誤っているかもしれません。
調べてみると、USスチールテネシー工場製造の輸入レールのようです。「1922」が製造年だとすると大正11年ということになります。
2両編成、ワンマン運転の電車が入庫して来ました。折り返し岸里玉出行きとなります。
1両目にはわたしを入れて3人。向こうの車両にはもう少し乗っているようですが、いずれにしても知れてます。不採算路線であることは間違いありません。
新大阪と関西空港とを結ぶ新路線計画があることから、廃止を免れているのでしょう。
汐見橋を出発した電車は、すぐにJR環状線の下をくぐります。
いつもカバンにいれている昼飯カメラ(RICOH GRDigitalⅢ)の広角レンズで撮影しています。
最初の駅は芦原町です。女性客1人が乗り込んできました。
次は木津川。ここは大勢!の客です。
かつては貨物駅が併設されていて、高野山方面から運ばれてきた材木などの集積地だったようです。
こちらは津守です、似たような駅が続きます。
窓の外の風景も代わり映えしません。どこまで走っても同じです。
西天下茶屋には、ちょっと降りてみたくなる風情がありました。
終点の岸里玉出が近づいて高架区間になると、単線になります。
この区間で、対向してくる電車とはすれ違いませんでした。ということは、わたしが乗ってきた1編成の車両が行ったり来たりしていることになります。そんなことなら複線の必要性はありません。
あっけなく終点の岸里玉出に到着しました。
この後、難波よりの天下茶屋まで1駅戻り、急行に乗り継ぎました。難波から出発するのとそれほど時間がかわりませんでした。
仕事である時期毎週1回は乗ってたことがあります。同行した人たちが、「大阪市内にこんな路線があるのか?」と驚いていました。芦原町はJR芦原橋に乗換えが可能な距離にあるので、利便性もなかなかのようですよ。