大坂(大阪)から京街道を上り伏見の宿に着きました。その後、、伏見街道、竹田街道を京に上りました。徳川幕府が開いた「東海道五十七次」は、伏見街道から東にそれて、山科を経て大津の手前の髭茶屋追分まで続いてます。小野小町に恋した深草少将の百夜通いの道とも重複しています。今回は、深草少将ゆかりの墨染・欣浄寺 (ごんじょうじ)から歩きました。
2010/03/27 12:02=小野小町ゆかりの寺、随心院です。大玄関の内部から薬医門越しの桜です。
10:42=伏見街道を歩いたときは、欣浄寺 (ごんじょうじ)の門は開いてました。小町塚も拝みましたが、今回は門は閉じられてました。
10:45=京阪・墨染駅の踏切を再び横切ります。
10:49=伏見街道(左を直進する)と分かれて、大津街道が右に向かって始まります。
角には「泉湯」という、最近では珍しくなった銭湯があります。
10:51=藤森神社の前を通過します。梅雨時の紫陽花で知られています。
10:55=街道らしい雰囲気も残っています。
10:56=西福寺の角を左折しました。少し歩くと西福寺幼稚園の園地です。その向こうに旧京都市電の車体が保存されています。きれいに再塗装されているようです。再会できてうれしいです。
2年以上も前に「伏見区内に残る京都市電」のタイトルで訪ねていました。そのときはクルマ、しかもナビ頼りだったので、場所は覚えてませんでした。
10:57=新しい住宅の前に石碑が建ってます。「みぎ ふしみみち」「ひだり きょうみち」と読めますが、新しいもののようです。
11:00=JR奈良線を越えます。
11:10=深草谷口町の変則交差点まできました。
1879年(明治12年)に東海道線の京都-大谷駅間が開通したときは、現時の東山トンネルはなく、伏見を経由して、この右側の道(現在の大岩街道)を走ってました。
街道は左側の細い道です。
明治45年測図の1/25000地形図の一部です。コチラからお借りしました。赤線が大津街道です。赤矢印が谷口町交差点です。
東海道線は、ランプ小屋の残る伏見稲荷駅から左折して大亀谷から東進しているのがよくわかります。
11:12=谷口町交差点の西北側の道は、しばらく進むと新しい住宅街となります。そちら側から交差点を見ました。
11:13=近くには仁明天皇などの御陵があります。
小野小町は仁明天皇の更衣だったという説もあるようです。
11:16=七瀬川を渡ります。
伏見街道でも、竹田街道でもこの川の下流を渡りました。
11:19=大岩街道と合流します。この府道は、旧東海道線の線路跡を走ってます。
11:32=名神高速道の下を歩き、地名も山科区勧修寺となります。
11:43=勧修寺までやって来ましたが、素通りしました。
勧修寺の北にある小野小学校近くに旧東海道線の山科駅があったそうです。そんなことなら行ってみるんだった。
11:55=まっすぐ東に進むと、小野で南北に走る奈良街道にぶつかります。大津街道はここを左折します。
12:12=小野小町ゆかりの随心院です。
世界三大美人のひとりに数えられ、紅一点として六歌仙にも名を連ねています。
「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に」(古今集)が記された石碑もあります。
12:15=桜が五分咲きといったところでしょうか。
12:16=梅園は広いですが、桜の木はそれほど多くはありませんでした。
12:22=いったん随心院を出て築地にそって東側にまわったところに「文塚」がります。深草少将の手紙を埋めたとされます。
12:26=小野小町の化粧井戸というのも残ってます。
12:30=翌日の28日は、「はねす踊り」が行われます。そんなことなら1日、ずらしてやってくるんでした。
「はねず」とは、うす紅色のことで、境内にある紅梅の色だそうです。
12:46=「大宅(おおやけ)一里塚」です。大きなエノキは枯れてしまったようですが、京都市の史跡に登録されています。
13:02=愛宕山の常夜灯が残っています。
13:07=「皇塚」刻まれた石碑が石垣に囲まれた塚上に立っています。6世紀ごろの円墳跡だそうです。
13:09=「みぎ うじみち」と記されています。追分側から見ると、この道は分岐するに従って伏見街道であり、醍醐街道、奈良街道、宇治街道とさまざまな呼び名があります。
13:11=国道1号を地下道でくぐります。
13:33=髭茶屋追分です。
13:33=右に進むのが京都・三条に続く旧東海道です。
かつて、東海道五十三次をお江戸日本橋から下ってきた友といっしょに歩いたことがあります。
13:35=滋賀県との府県境です。向こうの山間が逢坂越です。
この後、近くの京阪・追分駅から2駅の山科まで行き、JRに乗り継いで帰宅しました。
きょうの万歩計は22,274歩でした。