比叡山 戦争で消えた廃墟3連発

 比叡山に登りました。京都で育った人にとっては、朝夕に見上げる東北の目印の山でした。小さなころから数えきれないほどその山上を歩いています。
 京都市街を見下ろすケーブル比叡の横には、現在は「HIEIZAN」の大きな文字があります。ところが、その歴史を調べると、といっても僧兵が都に直訴で降りてきた白河法皇の時代ほどではなく、昭和の初めから戦中にかけてのころです。現在とは違う初代のロープウェイ、比叡山空中ケーブル(叡山空中ケーブル)が架かっていて、その駅舎が今も廃墟となって残っていることを知りました。
 わたしが子どものころに怖さに震えた「お化け屋敷」は、戦前に6年間だけ営業した叡山ホテルの跡地につくられていました。その建物も残っていました。
 知らなかった3つの廃墟を巡りました。

 【廃墟1】
 空中ケーブルの高祖谷駅跡です。昭和3(1928)年から19(1944)年まで使われていました。
 ケーブル比叡から20分ほど廃道を歩いた先に残っていました。

 【廃墟2】
 空中ケーブルの延暦寺駅跡です。
 釈迦堂近くに外壁が残っています。

 【廃墟3】
 ケーブル比叡の近くには叡山ホテル跡がありました。
 戦後、ここが夏季の「お化け屋敷」に使われていたようです。


 阪急、京阪、叡電と乗り継いで、八瀬までやってきました。比叡山ケーブルに乗りました。

 【2024/10/14 09:58】
 ケーブル比叡からスタートしました。

 ケーブル比叡から遠くない場所に戦後に架けられたロープウェイの駅があります。

 京都一周トレイルの北山コースのスタート地点でもあります。何回も歩きました。

 きょうは観光客はやってこない道を進みます。

 頭上を現在のロープウェイが横切りました。

 幅2メートルほどの広い道が続きます。でも場所によっては雑草が生い茂っています。

 樹林の間を気持ちのよい道が続きます。

 ケーブルの車内に古い資料写真が掲示されていました。そこにあった1枚です。高祖谷駅までの間はカゴも利用されていたのです。

 飯盒の蓋が落ちてました。

 木々が散乱しています。踏み越えて行きます。

 大きな倒木が通せんぼしています。谷側は滑ると危ないので、山側を回り込みました。

 この倒木は潜り抜けました。

 前方が開けた広場のようになっています。右奥に高祖谷駅跡が見えました。
 京都電灯によってつくられた空中ケーブルは戦争末期に戦況が厳しくなり、鉄供出のために廃止されました。
 愛宕山にあったケーブルと同じ運命をたどったのです。

 中央に廊下があったのでしょうか。

 どんな構造になっていたのかはわかりません。

 左右に2か所、上階をのぞく空間がありました。一方には鉄製の梯子がつけられていました。

 廃墟感が満載です。

 外部の側壁の1か所は開いています。

 下階と通じていたのでしょうか。それとも床がなくなったのでしょうか。

 左にある小山から見下ろしました。

 こちらは待合所か売店でもあった付帯建物のようです。

 屋根を支えていた鉄骨だけが残っています。

 北側の尾根を西山峠に向かって下りました。雑木林の区間は踏み跡がわからなくなり、YAMAPのGPSで方向を確認しながら慎重に下りました。

 トラロープが張られた急勾配のポイントもありました。

 西山峠に到着です。難ルートは終了して、ほっとしました。

 峠には道祖神のような像が祀られていました。

 そのまま進むと延暦寺の高僧と思われる大僧正といった字が彫られてた立派なな墓が連なっていました。

 ストーンサークルのように連なります。

 地図の599ピーク辺りは、まるで異郷の趣きでした。

 西山峠から東に林道を進みました。

 青い花が咲いていました。この日であったのは、この花だけです。

 京都一周トレイルの横高山、水井山、その左に大原の里が臨めました。

 奥比叡ドライブウェーにぶつかりましたました。西塔の駐車場でした。

 ここは元三大師道です。像が並んでいました。

 前方がパッと開けました。正面に人工の建造物が見えました。
 空中ケーブルの延暦寺駅跡でした。

 横川中堂の元三大師堂までは40丁の道のりです。

 駅舎の外壁だけが立っています。

 空中ケーブルの支柱跡です。上部の鉄は供出されました。

 このロープウェイが到着したのです。

 内部に回り込みました。

 機械室でしょうか。もう一つの構造物がありました。

 支柱の基盤部分です。がっしりとできています。こんなところまで、どのようにして機材や資材を運び込んだのでしょう。

 しばらう進むと見慣れた道に出ました。ケーブル比叡と根本中道を結ぶ道で、多くの観光客が歩いていました。

 比叡山山頂のガーデンミュージアムまでやってきました。秋の花でも観賞しようかと思いましたが、入園料1200円也を見て退散しました。

 コスモスなんかがきれいに咲いているようでした。

 びわ湖と大津市街が見下ろせました。

 向こうが比叡山の最高峰、大比叡(おおびえ)です。でも何度も登っているので敬遠しました。

 腹も減ってきたので、買ってきたパンを食べようと缶コーヒーもゲットしました。160円もしました。

 ちょっと休めるベンチがありません。ガーデンミュージアムのフェンスに沿ってロープウェイの比叡山山頂に向いて歩きました。
 おもしろい看板につられて歩いてしまいました。

 ミュージアムの西門まできました。その先のロープウェイ駅の前にテーブルがありました。

 京阪・祇園四条の改札前の志津屋で買ってきたペッパーカルネです。

 ハムにタマネギがはさまっただけのシンプルなパンです。これが昔から変わらない看板のパンです。

 小腹を満たして再スタート。人工スキー場の跡地です。

 この辺りに昔は蛇ヶ池遊園地があったのです。

 ケーブル比叡への脇道を下ります。
 看板にはいろんな施設名が書かれていますが、現存するのは確認できません。

 樹林の向こうを現在のロープウェイが走り去りました。

 気持ちよく下ります。

 古タイヤが丸く囲んだような広場が見えました、何だろう?

 駐車場のようでもありますが、つながる道がありません。

 向こうからも、何者かとシカの親子が現れて、わたしを見つめていました。

 一度は通り過ぎました。でもここが叡山ホテルかと、戻ってきました。
 先ほど、シカがいたのはホテルの屋上(屋根)だったことがわかりました。
 この辺りが叡山パラダイスと呼ばれた遊園地などの跡地のようです。

 近くに電気洗濯機の残骸が放り出されていました。

 こちらはゴリゴリと手廻ししてかき氷をつくる道具のようです。

 これは何でしょう。いろんなものが廃棄されています。

 向こう(北側)を見ると、それまで気づかなかった廃墟がありました。
 叡山ホテルは昭和14(1937)年、京都電灯が出資して建てたリゾートホテルでした。旧ロープウェイと同じ時期の昭和18(1943)年にに閉館されました。
 建築家の村野藤吾の設計で、地階を含め3階建て、客室は17室だったそうです。

 ここが入口でしょうか。

 右に回り込みました。

 内部には廃材が詰め込まれています。

 2階建てになっているようです。

 これが建物全景です。

 下階の内部は意外にきれいでした。

 急斜面の下は、ケーブル比叡から根本中道に向かうメーンルートでした。観光客の声が聞こえてきました。
 でもここを直接、登ってくるのは難しいようです。

 遊園地の回転遊具に下がっている飛行機の残骸のようです。

 釜も転がっていました。

 ここに「お化け屋敷」もあったようです。「スター食堂」までもが。
 ただし子どものころの位置関係の記憶とは、ちょっとつながりませんでした。

 ネットを検索していると、地図の赤線区間を歩いている人がいました。道があったようです。
 これでわたしの子ども時代の記憶とつながりました。

 さらに下ると、雲母坂から登ってくるルートと合流しました。
 そのままここを下ろうかとも思いました。でも易きに流れてケーブル比叡に向かいました。

 【13:24】
 ケーブル比叡に戻ってきました。ここをゴールとしました。

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