大阪・綿業会館の意匠

綿業会館の意匠

 綿業会館は、昭和6年(1931)、日本綿業倶楽部の建物として竣工しました。設計は渡辺節、ヘッドドラフトマン(何をする人でしょうか?)は村野藤吾(この人は知ってます)です。
 当時の金で100万円を寄付するひとがいて、これに50万円の拠出金を加えると、現在の75億円ほどになります。その半分以上が、内装に使われたそうです。
 某新聞社主催の歴史探訪サロン「昭和政財界の舞台-綿業会館」に参加しました。このビルには「繊維」の記者クラブがあって、何度か入ったことはありましたが、今回、食事付きでゆっくりと見ることができました。

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 まずは玄関ホールです。イタリア・ルネッサンス調にで、大理石はイタリアから運ばれました。

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 談話室の壁面は、京都・清水焼を使ったタイルでできています。
 飾られている写真は、昭和7年に満州事変の国際連盟調査団としてやってきたリットンらの一行が大阪経済界と会談したときのものです。

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 玄関ホールのシャンデリアです。光の使い方が巧みなのに感心します。

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 特別室の天井です。クイーン・アン・スタイルというそうです。

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 「鏡の間」と呼ばれる会議室です。アンピール・スタイルというそうです。楕円がいろんなところに使われています。ドアの上にも大理石を細工した楕円が、驚いたことに直線の柱も大理石です。

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 1階の廊下にある郵便箱です。2階以上から投函します。

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 本館地下のグリルの壁面装飾です。村野藤吾のデザインだそうです。

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 特別室のテーブルや椅子の脚です。「獣足」というそうで、こんなところも凝ってます。

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 会員食堂の天井です。こちらはミューラル・デコレーションの装飾がほどこされています。

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 大阪・船場のこのあたりは、昭和20年3月の大阪大空襲で一面焼け野原となりましたが、この建物だけが残りました。その秘密がこのガラス窓。設計時から、耐火ガラスが使われていたそうです。
 紡績業が全盛を向かえ、大阪が「日本のマンチェスター」と呼ばれた時代の建物です。よくこんなものを作ったものだと圧倒されるすばらしい「重要文化財」です。

「大阪・綿業会館の意匠」への1件のフィードバック

  1. taya様
    はじめまして。
    一見さんの会、副理事長と申します。
    TBとコメントをありがとうございました。
    恐縮です。
    旅の香りがたちこめる、素敵なサイトですね。ゆったりとした気分になれました。
    こちらこそ勉強させていただきます。
    また遊びにお越しくださいませ。
     

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