江戸時代の儒学者、貝原益軒が記した京ガイドツアー本「京城勝覧」を巡っています。昨秋は第十四日の大原まで訪ねました。この後、びわ湖畔の坂本、瀬田方面と続きます。そちらは桜の咲くころにとっておいて最終第十七日の『たゞすより上賀茂千本までの道を記す』(『 』は京城勝覧の引用です)をマイカーで走りました。
『上賀茂の西の山下にあり。正傳寺』とある正伝寺の「獅子の児渡し」と名付けられた枯山水庭園です。比叡山を借景にしています。前日の雪が薄っすらと残っていました。
「デビッド・ボウイが涙した静寂」をそのままに体感してきました。
『たゞす』とは、下鴨神社の糺の森(ただすのもり)のことです。下鴨で育った身としては、さすが下鴨神社はいまさらという気にもなって省略させてもらい、上賀茂神社がスタートです。
父母が健在だったころは毎年元日、ここに一家そろって初詣にやって来ました。当時は通行を許されていた重要文化財の玉橋の上で記念撮影したことが思いだされました。
松の内は、関西では小正月の1月15日までです。「ことしもよろしく~」とお参りしました。
神馬が出社していました。
二の鳥居から入ったすぐの細殿の前にある二対の立砂です。積雪を期待していましたが、すでに溶けていました。
ご祭神の降臨の地、神山を象徴していて、頂には松の葉が立てられています。
細殿を回り込むと、これまでは無意識に楼門に向かっていた左手前に末社の「橋本神社」がありました。『橋本のやしろ』と紹介されています。
中門の前で参拝しました。きょうは、ここから先には入れませんでした。
唐破風造りの屋根をかぶった片岡橋と、その向こうの片岡社です。背後が『片岡の森』です。
『橋本のやしろ』も残っています。
『神山より流れ出て。本社の御前をすぎ。やがて其下流をならの小川といふ。』と記された『ならの小川」』が流れています。
昨日の降雪のためか、いつになく水量が多いです。
『ならのやしろ』は小川の東にありました。
門前までやってくると、やきもちの「神馬堂」に暖簾が下がっていました。ここ十年ほどは、開いていているのに出くわしませんでした。
懐かしくて2個、買いました。
かつては、鉄板の上にずらーッと餅を並べ、焼けたのを横の扇風機で冷やして、すぐに売ってくれたものです。
土産にしたやきもちを、自宅に帰っていただきました。
トースターであぶって、かぶりつきました。柔らかいモチと、程よい甘さのあんに「こんな味だった」と納得しました。
上賀茂神社から北に2キロほど走り、柊野別れ(ひいらぎのわかれ)を右折して、上賀茂神社のご神体とされる神山(こうやま)の麓までやって来ました。
『上賀茂の北に御生所野(みあれの)といふ所神山の西北にあり 加茂の明神初めて出現し給ふ所也。』と記されています。
鴨川右岸から見た神山です。神の鎮座する神奈備山(かんなびやま)であり、形の整った円錐形をしています。
正伝寺は、カメラを携えた先客が1人おられただけ。薄雪が、すべての音を吸い取ってしまったかのようにな静寂に包まれていました。
じーっと正面の比叡山と向か合いました。
方丈は伏見桃山城の遺構(重要文化財)で、血天井も残されています。
参道には、南天の身が露を溜めて垂れ下がっていました。
凛とした曲線です。
正伝寺
075-491-3259
京都市北区西賀茂北鎮守町72
『霊源寺などといふ禅寺あり。また神光院という寺あり。』とありますが、今回はご遠慮しました。
京城勝覧はこの後、今宮、大徳寺、船岡山と巡ります。『千本寺 閻魔堂あり。人群衆す。小野篁。紫式部が墓。むかし此辺にありしといへども今はしれず』
京城勝覧では所在不明だった二人の墓は、北大路堀川を下がった西側に現存します。その後の物なのでしょうか。
左の紫式部の墓の方が、小野篁の墓よりも広いのはどうしたことでしょうか。
小野清明や陰陽道というのが若者にまで知れたのは、最近のことです。六道の辻の珍皇寺の井戸から夜ごと、閻魔の世界と行き来したという小野篁の存在も、かつては紫式部の人気ほどではなかったということしょうしょうか。
鷹峯の鏡石にも行ってみました。
『道の西のはしに鏡石あり 石の面あり 人のかげうつする事鏡のごとし。』
かつての観光名所も、今や苔の覆われたただの岩のようでした。
『此町を北に行ばおくに千束(せんぞく)といふ里あり。』
千束は、京都一周トレイルなどで何度も歩いたことがあります。愛宕神社の灯篭があるのも知っていました。
『これ古愛宕のやしろありし所なり。今のあたごは是よりのちにうつせり』とあります。
この辺りには、現在は愛宕山の上にある愛宕神社の旧社地だったようです。
千束から急坂を登ったところが鷹峯です。光悦寺の前を通り過ぎて、今回のゴールとしました。