東山三十六峰のウォーキングも終盤です。鹿ヶ谷(ししがだに)にある第15峰の椿ヶ峰から黒谷の金戒光明寺にある第13峰、紫雲山、そこから丘続きの第12峰、吉田山へと歩きました。
吉田山の山頂展望台からは、目の前に京都五山送り火の大文字の火床が見えます。目をこらすとハイカーの姿が点になって数えることができました。
椿ヶ峰に登る人は多くないようです。参考にしているToshiさんのホームページ「東山三十六峰」では、『お玉の橋を渡って登る』とあっけないほど簡単です。
ところが、別のネット情報では、そのルートは『わかり難い道』と記されています。北側のノートルダム女学院の方から登りましたが、そちらもルートを見つけられず、YAMAPの位置情報と方向だけを頼りに雑木の中を汗だくで頂上を目指しました。
紫雲山は光明寺の文殊塔の裏にあります。最高点には、清和天皇火葬塚があります。ここも宮内庁による「立入禁止」でした。
哲学の道の紅葉も、疏水の上で真っ赤になってました。
【2022/11/12 10:52】
四条河原町から京都市バスの銀閣寺行きに乗り、ちょっと手前の宮ノ前町で降りました。
「大豊神社駒返しの槙跡」の碑が立っています。かつて名木の槙がそびえいていたようです。
ノートルダム女学院(女子中、高校)の前を進みます。右が椿ヶ峰です。
イノシシ除けのゲートをくぐります。
フェンスに沿って上がります。
さて、そこからが問題でした。現在地を確認しようとして、スマホのGPSアプリ、YAMAPを始動させていなかったことに気づきました。
踏み跡を頼りに墓地を越えて東の斜面を登り始めました。でも踏み跡は消え、方向が違うことに気づいて、バックしました。
南に分け入るはずと、わずかな踏み跡らしき斜面に取り付きました。柔らかい腐葉土に足を取られて難儀しながら、とりあえず上に進みました。
【11:24】
取りつきから15分ほどで道なきルートを椿ヶ峰にたどり着きました。汗だくでした。
眺望はあまりありませんが、ちょっとした広場になっていました。裏面に「椿ヶ峰山天神神蹟」と彫られた石柱が立っていました。
木々の隙間から、京都タワーがのぞけました。
頂上からは北に向いた立派な山道を下りました。ここを登ってくれば、苦労はなかったのです。
登りとは大違いでした。
小さな谷の向こうに、ノートルダム女学院のフェンスが見えました。
こんなところに下ってきました。ここが運命の分岐点でした。上部の墓地の方へと進んでしまったのです。
振り返ると、朽ちかけていますが2本の丸太が並んでいます。これが、小さな谷を渡る丸太橋の残骸だったのです。これに気づけば、右上に続くルートを発見できたのです。
大豊神社の「椿ヶ峰のご神水」で汚れた手を清めました。
大豊神社は、鹿ケ谷、南禅寺一帯の産土の神、氏神様です。
境内には秋の七草など多くの和花が植えられています。
スイフヨウ(酔芙蓉)は、朝に花が咲き、夕方には萎んでしまう一日花です。
ホトトギス(杜鵑)は、奇妙な造形です。
コンギク(紺菊)の濃い青紫が鮮やかです。
紫式部が実をつけています。
椿もきれいです。椿ヶ峰は、ツバキが咲くことからつけられた山名なのでしょう。
哲学の道を南下します。この橋が、最初のガイドにあったお玉の橋と思われます。ところが、光雲寺橋と書かれていました。
紅葉を愛でて散歩している人が多かったです。
向こうに紫雲山の文殊塔が頭をのぞかせています。
昼になりました。カレーうどんの「日の出うどん」に行ってみましたが、この行列でした。ここに並ぶ根性はありませんでした。
「劇場版 きのう何食べた?」で西島秀俊と内野聖陽が、2人で京都旅行を楽しみ、おいしそうに食べていたシーンのロケ地です。
東天王町から黒谷に上がりました。こちらの紅葉も素敵です。
ますは会津藩士墓地を参っていきます。
幕末には京都守護職の松平容保率いる会津藩士1000人の本陣がありました。鳥羽伏見の戦いまでに亡くなった会津藩士が祀られています。
紫雲山の頂上辺りには文殊塔がそびえています。
振り返れば、光明寺の山門がひときわ立派です。
丘続きの吉田山に向かいます。吉田山荘の紅葉も立派です。
竹中稲荷神社の鳥居をくぐります。
吉田山の頂上近くにあるカフェ「茂庵(もあん)」(旧谷川茂次郎茶苑)は閉業したと聞いてました。でも電気がついており、予約制で営業しているようでした。そんなことなら、もう一度、やって来たいです。
谷川茂次郎は明治34(1901)年、大阪で新聞用紙の運送を専門に行う運送店を創業しました。わたしが勤めた新聞社にも「谷川運輸倉庫」のトラックが、毎日のように新聞用紙を運んで来ていました。
【13:16】
吉田山の頂上です。東向きに展望が開けています。
北参道を下り、今出川を西に。どこかで昼飯と歩きました。適当な店が見つからず、出町柳でゴールとしました。