今年も「青春18きっぷ」を買いました。20日から使えます。
さて、どこに行くか? ネットの時刻表を使って、いろんなルートを考えているときが、一番楽しいです。
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化粧直し中の「1820」@八幡市・巖商店
京都・八幡市内の国道1号沿いに「巖商店」はあります。自動車の解体処理業者ですが、「もぎ取り」で有名です。広い敷地に積まれた解体前の自動車から、欲しいパーツを自分で取り外して購入するんです。ドア1枚、ホイール1個、電装品といった具合です。その一角に、昔から市電がとまっているのは知ってました。
久しぶりに行ってみると、あたりはずいぶんときれいになってます。お目当ての「1820」は全身を灰色に塗装されていました。
「烏丸車庫入庫」の行き先表示幕が残っています。その上には「ワンマン」と表示されていたはずです。
京都市交通局のマークも同じ色になってます。
破れた木製ドアから内部をのぞき込みました。比較的きれいに保存されているようです。
昭和53年に譲渡を受けたことが説明されています。運賃は50円の時代だったのでしょう。
反対側は「回送」です。
最初に事務所に「写真を撮らせてください」と断りをいれました。カメラを構えていると、社員が出てきて、「さび止めをしたところ。2カ月ほどしたら、昔の市電の色に塗るよ。いま、当時の写真を見て、色を調べてるところだよ」とうれしい話を聞かせてくれました。「ウチの目印として、ずっと保存していくよ」
国道1号を横切って、交差点の反対側からの眺めです。
昔の塗色でリニューアルされたら、さぞ目立つことでしょう。今から楽しみです。
巌商店
阪堺電軌の車庫で休む「1870」@大阪・あびこ車庫
暑い1日でした。昼過ぎに仕事で行った堺市から戻ってきました。阪堺電軌(南海の子会社で、恵美須町-浜寺公園などを路面電車で運行)の我孫子車庫に1800型が保存されていることを思い出しました。南海高野線を新今宮で下車して、阪堺線の霞町まで歩きました。そこからあびこ道まで、チンチン電車に乗りました。あびこ道は、学生時代の友達が近くに下宿していて、そこを訪ねたときに下車して以来です。
阪堺電軌に譲渡され、「モ256」と改番された旧京都市電1800型は、駅の横にある我孫子車庫でゆっくりと休んでました。
我孫子車庫の全景です。いろんな車両がいます。
旧京都市電の1800型は5両が阪堺電軌に譲渡されました。すでに3台は廃車となり、1台は米・アリゾナ州ツーソン市に再譲渡され、動態保存されているそうです。
最後の1両の「1870」も京都市電色で動態保存されています。
車庫の裏側に回ってみると、昭和1ケタ時代に作られた「「モ160型」ががとまってました。
ビルに納まった「N28」@烏丸万寿寺・北阪ビル
「N電(狭軌1型)」の最終ナンバー「28」をつけた車両は、ビルの中にすっぽりと納まって保存されています。多分、旧京都市電の車両のなかで、一番穏やかな「老後」を送っているのがコレでしょう。(撮影は7月12日)
河原町万寿寺通の北西角にあるビル「北阪ビル」です。昭和60年のビルの竣工にあわせて、スペースが確保されたようです。
ビルに入って撮影させてもらいました。
「京電」の社章なのでしょう。
「北野」行きの行き先表示幕も残っています。
運転席はシンプルです。
2軸の車輪まわりがよくわかります。
ここにも残っていた「N5」@加悦SL広場
今春の「青春18きっぷ」で「加悦SL広場」(京都府与謝郡与謝野町字滝941-2)に行きました。そこに旧京都市電の「N電(狭軌1型)」はいました。
車体には「5」と表記されています。説明板にも「日本最古の路面電車-No.5号車」とあります。
ところが、同じ「5」は、「通勤電車から見える『N5』@明治製菓大阪工場」として紹介したばかりです。わたしが参考にしている「京都市電の廃線跡を探る」のうちの「保存車両現況」では、1から順に追って保存場所が紹介されています。それによると「5」は明治製菓、「23」が加悦SL広場となっています。
2台の「N5」はナゾのままです。
この車両は、北野線で最後まで走っていましたが、1961年7月31日の同線廃止とともに廃車となりました。その後、宝塚ファミリーランドで展示・保存されていました。2003年にそこも閉鎖され、加悦SL広場にやってきました。
現在は修復作業中ということで、シートをかぶっています。
説明板も宝塚からもってきたようです。
加悦SL広場の正面には、旧加悦鉄道加悦駅が復元されています。この右側の駐車場の脇にN電はとまっています。
「N1」が保存されている大宮交通公園には、加悦鉄道のSLも展示されていました。京都市電とのなにかの縁なのでしょう。
「小さな改札口」のある田舎駅をつくる vol.1 建設計画
「小さな改札口」のある田舎駅の建設工事に本格的に着手しました。
このスペースに駅舎とプラットホームを作ります。
建設計画は以前からありました。プラ板(プラスティック板)を切って、駅舎の試作を試みました。でも、屋根材の入手途中でストップしてました。
百均で入手した展示ケースです(200円か300円しました)。この中に駅舎とプラットホームを組み込みます。保有車両がホコリをかぶらないようにしたいからです。
JR六甲道近くの「六甲模型」に行きました。価格も手ごろだったので衝動買いしたのは、「小さな改札口」というキットです。分厚いボール紙が精巧にカットされてます。プラスティックの部品もついてます。
完成イメージをつかむために、さっそく仮組みしてみました。
次は塗装です。
通勤電車から見える「N5」@明治製菓大阪工場
JR京都線で通勤するようになりました。高槻駅で快速に乗り換えると、すぐに明治製菓大阪工場(高槻市朝日町1-10)が見えてきます。そこに「N5」は保存されています。電車から見えるのは、ほんの一瞬です。
わざわざカメラをもって出かけました。きょうは各停に乗り、次の摂津富田駅で下車して、暑い中を歩きました。線路添いに道はありません。このあたりと目星をつけた地点は工場南側の線路際です。
望遠で撮影しましたが、金網がじゃまになって、ぼやけた画像になってます。
「5」と車体に書かれているのがよくわかります。塗装も新しく、きれいに保存されているようです。
この工場は、小学校のときに社会見学でやってきたことがあります。次に行ったのが大阪・中之島の朝日新聞社でした。
フェンスに沿って西側に移動しました。
工場の正門は国道171号沿いにあえります。見学を申し出ようかとも思いましたが、許されるかどうかは不明です。それに、ものすごく暑い日差しに、そこまで歩く元気も失せて、退散しました。
少年は「720」の横でボールを蹴る@塚本児童公園
「京都市電の残影」を追った1日(6月28日)でした。自転車で輪行しようかととも考えましたが、天気予報は「午後から雨」(その通りになりました)。市バスの「1日乗車券」をフルに使っての市電追跡となりました。
塚本児童公園(京都市左京区一乗寺塚本町)は、北大路と白川通の交差点の近くにあります。北大路バスターミナルからどうやって行こうかとバス路線図をみると、近くを通って銀閣寺方面に向かう「204」というのが走ってました。市電の「4」系統の亜流のような路線です。
公園の隅に置かれてますが、ボールが窓ガラスを破らないように、ネットで覆われています。
かつては、市電はあちこちの児童公園に保存されてました。ほとんどが解体撤去されてしまい、「720」は、数少ない生き残りです。
ラーメンの「天下一品」の本店は目の前です。でも、きょうは違う店にしようと銀閣寺までバスに乗り、「ますたに」に行きました。
この日、使用した500円の1日乗車券です。市バスの市内均一料金は220円です。6回も乗りましたので、十分に元をとりました。
幼稚園になった「301」@紫明幼稚園
京都市電の北大路車庫(現在は市バスの北大路ターミナル)のすぐ近く。北大路通から路地をちょっと入ったところに紫明(しめい)幼稚園(京都市北区小山東大野町83)はあります。
ここの園庭に300型がいます。保存というより、再利用というのがぴったりです。現役の教室として使われています。
あまり広くはない園庭ですが、裏の路地側からもコンクリート塀で見えません。土曜日の午前中で園児はいなかったので、「市電の写真を撮らせてほしい」とお願いしました。「住所、氏名をお書きくださるなら」と、優しく招き入れられました。
「301」のナンバーがくっきりと残っています。塗装もしっかりしており、ていねいに使われているのがわかります。
教室の隅のドアを開けると、市電の車体につながります。すっかり園舎の一部に組み込まれてます。
内部はシートが取り去られ、平らな床になってます。
「一番年少組の教室に使ってます。人気があります。卒園した子供からも、懐かしいという声をよく聞きます」。女性の先生がにこやかに話してくれました。
撮影・08/06/28
北野線のちんちん電車「N1」@大宮交通公園
懐かしい「ちんちん電車」です。最後まで京都市内を走っていた北野線に乗ったことがあります。廃線跡を歩いたこともあります。
大宮交通公園(京都市北区大宮西脇台町)に1800型とともに保存されている「N1」は、その北野線を走っていたかわいい車両です。Nは、狭軌(narrow)の略で、軌道幅が1068ミリしかありません。
京都電気鉄道(京電)は1895(明治28)年、塩小路東洞院-伏見京橋間にわが国最初の一般道路を走る路面電車を走らせました。出発のときなどの合図に、鐘が「ちんちん」と鳴ったことから、「ちんちん電車」と呼ばれました。1912(明治45)年になって、京都市営電車(市電)が走り始め、京電は吸収されます。それでも、狭軌の北野線などはそのままで、四条通の一部区間では、最後まで3本レールで運行されていました。
色あせた側面に、京都市交通局のロゴが残っています。
架線がありませんが、ポールは残っています。
終着の京都駅や北野に着くと、車掌が窓から身を乗り出してロープをたぐり寄せてポールをおろしていたのを覚えています。
狭い車内です。現代の若者が傍若無人に足を伸ばすようなスペースはありません。
「No6」と改番されています。
図書館で借りてきた京都市電にかんする書籍です。これを見ているうちに、本物と再開したくなりました。