東海道五十三次を歩いています。この土日で、静岡県の安部川から丸子-岡部-藤枝-島田-金谷-日坂-掛川と7つの宿を歩きました。距離にした40キロ超です。
宇津ノ谷(うつのや)は、丸子(まりこ)から宇津ノ谷峠に向かう山ふところの間宿(あいのしゅく)です。
「手打ち 十割そば」の看板にひかれました。「蕎麦処 きしがみ」は有名店だったようで、次々と客がやってきます。
お薦めは幻の山菜、行者にんにくのてんぷらだそうです。そのてんぷらがついた「行者にんにくの天せいろ」(1260円)を頼みました。
まずはそばの揚げ物がでて、そばが茹で上がるのを待ちます。
行者にんにくのてんぷらです。ニンニクの葉なんでしょうか。プーンと匂いはします。
そばは、セイロと言うから蒸したてが出るのかと思ってましたが、冷たいざるでした。それでも、細い、シャキッとした麺を楽しみました。
もう、何年前になるでしょうか、箱根・強羅のM社保養所からの帰りに、東名高速を走らずに、下の道、つまり国道1号を走ったことがあります。この歩かれた区間はあちこちにバイパスが出来ていて、市街地を通らないものですから、信号は無いし、車もすいすいと流れて、80kmぐらいで走り抜けました。何や東名なんか高い高速代払って走ることないがな、と悦に入ったものでした。でも、そんなことでは、ブログにあるような味わいを得ることは出来ませんね。このような道中があったとは思いもかけませんでした。浅野内匠頭の変事を赤穂に知らせる早馬が、東海道を駆け抜けた一番速い記録といわれますが、わき目をふるどころか、主君の一大事と一心にこの地を駆けたのでしょうね。
浅野内匠頭の書き込みで早馬としたのを訂正します。早駕籠でした。少し書いてみましょう。事件は元禄14年3月14日午前11時ごろに、江戸城松の廊下で起きました。内匠頭は綱吉の裁定で即日切腹と決まり、罪人扱いで江戸城そとの田村家に預けられ、日が落ちた18時ごろに切腹しました。播州赤穂へは、当日14時ごろ早見藤左衛星門と萱野三平が早駕籠で江戸を出発し、155里(約620km)を昼夜駆けどうしに早駕籠を乗り継いで19日朝5時ごろに着いたとの記録があります。続いて2便の原惣右衛門と大石瀬左衛門がその日の21時ごろに着き、最初の便で殿中の刃傷、2便で切腹がわかった、とあります。最初の便が4日と15時間ですから、よく言われる4日半ですね。京都までなら3日でしょうか。これが一番早い記録と言われます。1時間6kmで、それほど早いようには思えませんが、幾多の山道や峠越えを考えると、平地ではその倍ぐらいの速さだったかもしれません。どうして早馬にしなかったのかとも思いますし、乗り継ぎ用の早駕籠の人夫が次々用意されていたということや、京ではもう翌日には噂が流れていたとか。何か不思議ですね。余談ですが、大名を庭で切腹させたことで、検視役の大目付が19日に免職になっています。