タイレストランのバイキング

イーサンのバイキング

 寺町を御所に沿って歩き、同志社の前を通り、やってきたのは烏丸今出川。ここが目的地ではありませんが、腹がへったなあと歩いていると、タイレストラン「イーサン」がありました。店内をうかがうと、繁盛しているようです。
 みんな、バイキング(1200円)を頼んでいるようです。仕切りのついた松花堂弁当のような(四角ではありませんが)器がでてきました。これに好きなモノを取ります。最初は、味を警戒して控えめにしました。
 左上は、鶏肉とレバーをピーマンなどの野菜と炒めたものです。上中央は手羽先の唐揚げタイ風味です。右上はタイ風焼きうどん(?)といった感じで、幅が3センチほどもある平べったい麺を野菜とともに炒めてました。左下は野菜サラダにナンプラー入りのドレッシング、右下はタイ風ピラフ(正確な名前はわかりませので、とりあえずタイ風とつけておきます)です。日本人の舌にあわせているのか、どれもおいしいです。
 2度目は、タイ米にホワイトカレーをかけて食べました。これは辛いですが、タケノコなんかも入っていて、いけます。

イーサンの名刺

サラダ

 サラダのコーナーです。野菜の他にも、豆、果物が並んでいます。ドレッシングは、あまりわからないのもあります。

メーン料理

 メーン料理が、並んでいます。どれをとればいいのか、迷ってしまいます。

イーサンの外観

続・丸善京都河原町店 檸檬

丸善の檸檬コーナー

 京都の丸善といえば、梶井基次郎の短編「檸檬」です。店を入ったところに檸檬のコーナーがありました。文庫本の「檸檬」が1000冊も積まれ本の上に檸檬をそっと置いていく人までいたそうです。
 
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑(ほほえ)ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉(こっぱ)みじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩(いろど)っている京極を下って行った。
 「檸檬」は、1925(大正14)年、同人雑誌「青空」に発表されました。となると、原文に登場する丸善は現在地ではありません。寺町三条西入ルの現在の「有本洋服店」あたりあったようです。
 ついでながら、「有本」は亡くなった父親のひいきの店で、リクルートスーツやモーニングなどを作ってくれました。わたしは、ここでスーツを誂えるくらいなら、吊しを数着買う方の人間に育ってしまいました。

八百卯の檸檬

 とうとう私は二条の方へ寺町を下(さが)り、そこの果物屋で足を留(と)めた。ここでちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗(うるしぬ)りの板だったように思える。
 丸善を出て、寺町を歩きました。やって来たのは二条の角にある果物店「八百卯」。「私」が檸檬を買ったという店です。

八百卯の外観

 
 カメラを構えていると、後で声がしました。
 「丸善がなくなるんで、きっとここの写真も撮ってはるんや」
 その通りです。
 

丸善京都河原町店 最後の日

丸善正面

 「本日は午後7時で閉店します」とのお知らせが掲出された丸善京都河原町店です。
 「明治5(1872)年に丸善京都店(丸屋善吉店)として開店し、昭和15(1940)年には河原町の現住所に店舗を構え、以来永きに亘り…。近年、河原町地区の商業環境の変化や店舗の大型化傾向に伴い、現状店舗ではお客さまのニーズに十分にお応えすることが難しくなり…。出来るだけ早い時期に再開店のご案内が出来ますよう努力して…」(閉店のお知らせより)
 洋書といえば丸善-といったイメージで、学生時代にはペーパーバックスを何冊か買った思い出があります。「老人と海」「マイ・フェア・レディー」。
 文具売り場も充実しています。今春には、愛用していた(ここで買った) Pelikan の万年筆を修理してもらいました。

丸善の文具売り場

 
 3階の文具品売り場です。さすがに50%off、30、20%offで、商品棚は空っぽです。

丸善の袋

 おなじみの丸善のブックカバーと袋です。きょうは、記念品として鉛筆2本がついてきました。

京都検定の申込書

 わざわざ丸善まで出かけたのは「京都検定」を申し込むためでした。受験料3150円も支払ったので、まじめに勉強しなくては。

丸善の外観

 丸善のビルです。立派なモノですがね。「白杖デー」ということで、河原町を「歩道にモノを置かないで」などと訴える一団がパレードしていました。