「京童」と歩く 3日目 五条大橋から東寺へ

 江戸初期に中川喜雲によって書かれた観光ガイドブック、「京童」とともに歩く3日目です。
 泉涌寺から五条まで戻ってくる道は省いて、五条大橋を出発、因幡薬師から五条天神、東西本願寺と巡り東寺、西寺でゴールとしました。
 寒さが和らいだ都路を13キロほど歩きました。


 【2026/02/18 10:50】
 【五條の石ばし】(京童の紹介ポイントは、この表記とします)
 阪急・河原町から高瀬川沿いを下ってきて五条大橋です。
 河畔の児童公園にモニュメントのような石柱が立っています。よく見ると「天正十七年」と彫られています。
 1589年に豊臣秀吉が架けた大橋の橋脚でした。

 江戸時代につくられた擬宝珠も残っています。正保2(1645)年と刻まれています。徳川家光の時代です。

 「京の五条の橋の上」ということで、牛若・弁慶の像が立っています。
 牛若の時代の五條橋は、上流にある現在の松原橋の位置に架かっていました。ですから、二人が闘ったのはここではないのです。

 【御影堂】
 河畔には「扇塚」もあります。京扇の発祥の地です。
 京都電鉄・木屋町線の遺構もすぐ近くに残っています。

 この辺りに一遍上人の御影(みえい)を祀る時宗御影堂がありました。そのことも記されています。

 【六條河原のゐん】
 大橋の南に大きなエノキがそびえています。

 木の下に「源融河原院阯」の碑が立っています。
 源氏物語の主人公、光源氏のモデルと目される源融(みなもとのとおる)の広大な邸宅がありました。

 御影堂があった名残を示す通り名です。

 五条会館(五條會館歌舞練場) は大正6(1917)年に建てられた木造3階の伝統的建造物です。旧花街のシンボルでした。

 花街だったことがよくわかる2階軒下の電燈です。

 大正ロマンを感じさせるカフェ建築が残ります。

 【夕顔の宿】
 光源氏と夕顔が密会を重ねた邸宅があったとされる地には、「夕顔之墳(墓)」の石碑がたっています。 

 あたりは夕顔町という町名で、隣のマンションも「◯◯夕顔」でした。

 【因幡薬師】
 不明門通の正面が因幡薬師堂(平等寺)です。
 不明門通は「あけずもんとおり」と読み、薬師堂の正面の門が常に閉ざされていたことに由来します。

 因幡の国(鳥取県)の海中から引き揚げられた薬師如来を祀っています。


 
 【新玉津島】
 烏丸松原を西に入ったところに新玉津島神社がありました。初めて詣りました。

 鎌倉初期の歌人、藤原俊成が自らの宅地に、和歌山・玉津島神社の歌道の神を勧請したことに由来します。

 【五條の天神】
 松原通をさらに西に歩くと五條天神社です。秀吉以前は、この通が五条だったのです。
 平安遷都の折に創建された洛中最古の社で、「天使の宮」「天使社」と称しました。秀吉の天正の地割りで広い敷地を貫通する道ができたことから、あたりの地名が「天使突抜(てんしつきぬけ)」となりました。

 牛若・弁慶の時代はここの近くに五條橋が架かっていたとも伝わり、「当宮は義経と弁慶の一期一会の出会い地です」と説明されています。その記念写真を撮ろうと、スマホでQRコードを読み取って操作しました。

 出来上がったのがこんな写真でした。

 【本願寺】
 東本願寺までやってきました。

 「京童」の本願寺に関する記述はたったの1ページ。びっくりするほど簡略です。
 「東西たがひに⋯いせいあらそひある事⋯今われごとき⋯しんらんのたたりおそろしければ⋯とかく口をふたぎて⋯」と、そのワケを書いています。

 で、わたしも足早に。
 西本願寺では、国宝・飛雲閣が一般公開されていましたが、またの機会に。

 お隣の興正寺の紅白梅がきれいに咲いていました。

 【東寺】
 東寺の門をくぐります。

 東寺といえば五重塔です。木造の建造物としては日本一の高さを誇ります。

 この寒さの中、薄っぺらな着物姿のインバウンドがいく組も記念撮影していました。

 【大通寺】
 九条大宮を下がった大通寺です。

 【羅生門】
 平安京のメーンストリート、朱雀大路の南端にあった大門の跡です。現在は小さな児童公園に石碑が立つだけです。

 【西寺のしゆびん塚】 
 羅城門跡のすぐ前、九条通に面して矢取地蔵があります。
 東寺の弘法大師(空海)と西寺の守敏僧都(しゅびんそうず)が術比べをして対立、敗れた守敏が空海に向けて矢を射掛けたが、この地蔵が身代わりになったそうです。

 広い公園の中に「史跡西寺阯」の碑だけがたっていました。

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