インスブルック マルクト・ハレのマルガリータ

 インスブルックでの「きょうの昼飯」です。
 マルクト・ハレは新鮮な食材が並ぶ屋内市場です。真っ赤なトマトやザクロの実ではないかと思える小粒の赤い粒、旬を迎えるボルチーニ茸なんかが並んでいました。画像は改めてー。
 市場の一角で焼き立てのマルガリータをいただきました。2人で1枚で十分でした。「シェアする」というと、初めから2枚に切ってサーブしてくれました。トマトソースがちょっと塩辛いですが、パリッと焼けた皮がうまかったです。

 お決まりのビールは「ノーマルビル」と頼んだ「Radler/sauer」でした。サーブしてくれた兄ちゃんを見ていると、ビンから注いだビールを炭酸水かなにかで割っているようでした。さっぱりとした口当たりで飲みやすかったですが、アルコール分は薄めでした。

 La Piccolaというマルクト・ハレの一角にあるピザの店でした。

 マルクト・ハレを歩いていて、最初に足を止めたのはこちらでした。
「Sturm」は、ウィーンのホイリゲでこの時期にしか出回わらないワインになる前のブドウ・ジュースのようなものです。口当たりはいいですが、それなりに回ります。

 ゴクリと奥さまもご満悦でした。

 1リットル瓶も並んでましたが、さすがにこれをホテルに持ち帰ることはありませんでした。

インスブルック 絶景の現実

 インスブルックの北の山、南の山へケーブルカーやロープウエーで上りました。一日、遊び疲れてホテルに戻ってくると、最高の青空が広がってました。
 昨日、「予感」を撮影したイン小橋にもう一度、行ってみました。「現実」は予想通りでした。

 イン川の上流にもきれいな山がそびえていました。

 午前中に上った北側の山です。視界はなく、足首を超える積雪に逃げ帰ってきたのがウソのようです。

インスブルック 絶景の予感

 小雨になりました。ホテルで一休みした後、散歩に出ました。
 雲の切れ間から、すぐ近くに白い雪をかぶった鋭い岩峰がのぞいていました。

 北側の山にはケーブルカーがつながっているはずです。

 南側の山々は、穏やかな山容ですが雪は積もっています。

 イン川にかかる小橋の上は、どこにでもある光景でした。

 イン川沿いの散歩道を、坊やもワンコも散歩していました。
 昼間には、雨の中でブランコを漕いでいる親子もいました。
 明日の天気予報は「晴れ」です。どんな光景がベールを脱ぐのでしょうか。目覚めるのが楽しみです。

雨のインスブルック 黄金の小屋根の響き

 チロルの秋を楽しもうとインスブルックにやってきました。ところが雨、降りしきり、気温は10度ほどとまるで初冬でした。傘をさし、セーターに雨具を着込んで旧市街を巡りました。
 旧市街の象徴となっている「黄金の小屋根」です。張り出した出窓(エルカー)の上に黄金色に輝く小屋根は、皇帝・マクシミリアン1世が広場で行われる行事を見物するために15世紀末に作られました。
 お隣の「市の塔」から見下ろしていると、運よくそこからブラスが鳴り渡りました。

 「黄金の小屋根博物館」に入ると、目の前でブラスが奏でられていました。

 トランペットにトロンボーンなど、みんな上手です。
 石の建物で奏でているせいか、よく響いていました。アマチュアのボランティアだと思わせましたが、吹いているほうも気持ちよかったはずです。

 最初に見下ろしていた市の塔の時計も見えました。

 演奏が終わった後で、小屋根から見晴らしを確認しました。皇帝が見たのと同じ光景です。

 小窓の天上には、人間など精密な彫刻が施されていました。

 

ブラスの音声が入った動画も撮影しました。

アムステルダムを散歩する

 アムステルダムに着きました。スキポール空港の入国手続きで待たされましたが、空港前のホテルにチェックイン。さっそく鉄道で20分ほどのアムステルダムに向かいました。
 中央駅からトラムに乗り、向かったのはアムステルダム・コンセルトヘボウでした。これがホールの名前であり、シンフォニーオーケストラの名前です。
 2015年にやってきたときは「I Amsterdam」のシンボルがあったあたりからホールを臨み、思い出に浸りました。指揮者のマリス・ヤンソンスの最後のシーズンのコンサートでした。

 シンボルのハープが西日に輝いていました。
 まだ秋の音楽シーズンは始まっていないようでした。
 

 振り返れば国立ミュージアムです。レンブラントの「夜景」やフェルメールが並んでいます。

 東京駅のモデルになったともいわれるアムステルダム中央駅です。夕方の通勤ラッシュとあって、混雑していました。

 駅前からは「5番」のトラムに乗れば行けるはずでした。
 ところが車掌に聞くと、「5番はここまで来ないよ」。記憶違いだったのか、路線が変更になったのか。12番のトラムに、1時間チケットを買って乗り込みました。

 運河の街です。自転車の街です。車窓からの風景です。

 「ここから歩いたね」と、流れる懐かしい風景に声を上げ続けました。

1EUR=120YEN ウィーンでのんびりと

 「ウィーンでのんびりと」の旅に出発します。
 ウィーン1カ月滞在が夢でした。そこは思うに任せず、半月ほどの旅になりました。
 リタイア後には、スペイン巡礼45日の一人旅には出ました。でも、奥さまとゆっくりと旅するのは久しぶりです。夫婦でのヨーロッパは8回目(わたしは11回目)になります。
 このところ続いていたユーロ安も、5日には一服したようです。わたしは2日に当座の現金支出のために高槻の銀行窓口でユーロを購入しました。当日の外為は1EURが118円台でした。それに手数料が加わって120円ちょっとでした。
 1EURがたった100円だったときもあり、140円したときもありました。ちょうど中間です。
 さて、旅の方は「ウィーンでのんびりと」といいながら、なかなかゆっくりとはしておれない性格です。まずはインスブルックに飛び、チロルの秋を楽しみます。

 ウィーンの楽友協会(ムジーク・フェライン)では、ベートーベンの第9を聴きます。
 王宮礼拝堂の日曜ミサも聴きます。ここではウィーン少年合唱団が天上からの歌声を聞かせてくれます。
 最後のベルリンでは、ベルリンフィルハーモニーの響きに浸ります。

「数」ある欧州旅 番外編『end ~3571』

 「Top of Europe」(3571m)で、『「数」ある欧州旅』は最終回といたします。
 スイスの名峰アイガー、ユングフラウ、メンヒが連なるベルナーアルプス三山をのぞむクライネ・シャイデックから約100年前に開通したユングフラウ鉄道で、ヨーロッパ最高地点の鉄道駅、ユングフラウヨッホまで行きました。アレッチ氷河なんかの絶景が望めるはずでした。ところが、無情の雨。登ったという記憶だけが残りました。

 スペイン・サンティアゴ巡礼では、フランス-スペイン国境のピレネーに始まって、いくつもの峠を越えました。
 巡礼も終盤のサン・ロケ峠には、帽子を押さえたペルグリーノ(巡礼者)の像が風雪に耐えて立っていました。

 スイス・エンガディン地方のマローヤです。「アルプスの画家」といわれるセガンティーニのアトリエが残っていました。
 ここからブレガリアの谷を下り、セガンティーニは「天国の入り口」といった村、ソーリオを訪ねました。

 おいしいビールをたくさん飲みました。
 「1516」は、ウィーンでいただきました。ケルントナー通りの近くにあるビアレストラン「1516」のオリジナルビールでした。

 巡礼中のフロミスタで飲んだビールです。特に指定した記憶はありません。「クローネンブルグ 1664」はフランスのストラスブール産でした。

 「1906」も巡礼の途中で飲んだビールです。よく飲んだエストレーリャ・ガリシアのプレミアム・ヴァージョンのようでした。

「数」ある欧州旅 番外編『over 100』

 スイスのアイガーの麓です。ベルナー・オーバーラント鉄道でクライネ・シャイデックから下ってきて、ベンゲンで途中下車しました。駅といってもホームはありません。レールの間には、板がかぶされていました。ラックレールのギザギザもよく見えました。

 スペイン・サンティアゴ巡礼で、あと200キロ。最後の峠、オ・セブレイロを越えたらゴールも見えてくるはずでした。ところが、積もり積もった疲労が限界に達したのか、左足に激痛が走るようになりました。苦しかった記憶も、今では思い出です。

 オランダ・スキポール空港で乗り継ぎのミラノ行きを待ちました。窓の外を眺めていると、ちょっとヘンな光景が繰り広げられました。
 パンクしたのでしょうか。自動車修理工場のジャッキのようなものが登場して、いとも簡単に前脚をもちあげてしまいました。いくら飛行機が軽いとはいえ相手はBoeing737-300です。

 プラハのマラー・ストラナは官庁街です。在チェコ日本国大使館がありました。
 春江一也の小説「プラハの春」の舞台だったところです。

 ドレスデンで見かけたリムジンです。なんと、かのトラバントの改造車でした。

 スイス・サンモリッツで発車を待つGlacier Express(氷河急行)塗装のELです。マッターホルンの麓の村、ツェルマットまで平均時速は30キロほどで走り、8時間もかかりました。

「数」ある欧州旅 番外編『100』

 スペイン・サンティアゴ巡礼で、ゴールのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで100キロを示すモホン(道標)です。巡礼では、100キロ以上歩くとコンポステーラ(巡礼証明書)がいただけるため、とりわけ印象深い地点でした。

 2度目の巡礼では、ガリシア州のモホンがすべて交換されていました。ところが、100キロの手前にフェイクのモホンがあることは、きっちりと引き継がれていました。

 こちらがニセモノ。距離表示のプレートが持ち去られ、フェルトペンで100キロと書かれていました。
 改めて見ると、同じような格好をして歩いていたのですね。

 パンプローナ郊外のナバーラ大学の広いキャンパスには、日本語も交えた案内板が立っていました。ここでクレデンシャル(巡礼パスポート)にスタンプを押してもらいました。