彼岸明けになってしまいました。興聖寺に墓参りしました。
彼岸花(曼殊沙華)が、あちこちに咲いていました。
琴坂が色づくのは、まだ先です。
京都の盂蘭盆のフィナーレは、京都五山の送り火です。わたしが少年だったころは、自宅の2階窓からも「大」の上部が見える、あたり前の光景でした。それを、その気になって眺めたのはいつ以来でしょうか?
見物客でいっぱいの出町柳の土手の上から、初盆の母を送りました。
タイミングよく雲間が晴れて、満月が姿を見せました。思わず拍手が沸き起こりました。
丸太町から鴨川の右岸を歩きました。
荒神口あたりの亀の渡しは、昨日からの雨の影響で水没していました。
出町柳までくると、正面に大文字山が臨めました。すでに先客でいっぱいでしたが、なんとか座れました。
午後8時の点火を待ちました。
点火されると、一気に「大」の文字が現れました。
残念ながら「妙法」「船形」「左大文字」「鳥居型」の残る4つは見ることができませんでした。
送り火の前に「送り鐘」をつきました。寺町三条を上がったところにある矢田寺(矢田地蔵尊)です。
「京都人の密かな愉しみ BLUE 送る夏」(NHK-BS)の一編に登場していました。
ローソクを灯し、線香をあげました。
今年の盂蘭盆は、六道珍皇寺の「迎え鐘」で初盆の精霊を迎え、興聖寺で供養し、矢田寺で送り鐘をつき、五山送り火とともに送りました。
矢田寺(矢田地蔵尊)
京都市中京区寺町通三条上ル523
送り火が消えて京阪・出町柳まで人の流れと歩きました。しかし地下の改札口への道は大混雑でした。
ちょっと東に歩いたところに「鳥貴族」がありました。すぐに座れて、とりあえずの一杯でした。送り火の後にとも思いましたが、焼き鳥にも食らいつきました。
初めての鳥貴族でした。リーズナブルな価格設定のせいか、この夜も満席でした。
宇治の興聖寺で、母の初盆供養をしました。台風が過ぎ去り、暑くなった1日でした。
昼前だったので、いつも込んでいる「伊藤久右衛門 本店茶房」ですが、すぐに座ることができました。パフェがおいしそうでしたが、お腹も空いてきたので「にしんそば・かやくごはん」(1340円)にしました。
甘いにしんが載っています。この時期ににしんが続きました。茶そばも、しっとりとおいしいです。
薄味のゆばと、茶葉の佃煮が箸休めでした。
ゆっくりといただいて店を出るときは、茶房はウェイティングの列。売り場も大混雑でした。
伊藤久右衛門 本店茶房
0774-23-3955
宇治市莵道荒槙19-3
菩提寺である興聖寺で、初盆・盂蘭盆供養を待ちました。マツの葉にたまった前夜来の雨粒が、日を浴びて輝いていました。
初盆のお塔婆をいただきました。
法要が終わると、よく冷えた葛切りがふるまわれました。黒蜜の甘さもほどほどで、ツルリと爽やかでした。
曹洞宗 仏徳山興聖寺
0774-21-2040
宇治市宇治山田27-1
「六道まいり」で京都・東山にある六道珍皇寺に参りました。「お精霊(しょうらい)さん迎え」とも呼び、京都では13日から始まり16日の五山の送り火に終る盂蘭盆(うらぼん)を前にして、7日から10日までの4日間に精霊(御魂 みたま)を迎えるために六道珍皇寺に参詣する風習があります。
わが家にも、初盆を迎える新仏さんがおられます。それほど信心深いわけでもなく、バッハの宗教曲に耳を傾け、スペインのサンティアゴ巡礼に心を寄せる身ですが、初めての参詣でした。
門をくぐった参道わきに、高野槇(こうやまき)の枝を売る店が並んでいました。
古来より、精霊は槇の葉に乗って冥土より帰ってくるとされています。
一枝、600円でした。
本堂前で、水塔婆(みずとうば)に父と母の戒名を書いてもらいました。
「迎え鐘」を打つ順番を待つ行列から見えるところに、六道まいりの手順が説明されていました。
迎え鐘を打ちました。垂れ下がった綱を引っ張ると、「ゴーン」。鐘は見えません。
長い行列を覚悟していましたが、朝が早かったせいか、それほど待たなくてもよかったです。
本堂にロウソクを灯しました。
本堂にお参りしました。
線香を灯し、水塔婆を浄めました。
「仙壽院佳心妙道大姉」というのが、5月に亡くなった母の戒名です。
地蔵尊宝前で、用意された高野槙で水回向を行ない、水塔婆を納めました。
六道珍皇寺の裏庭には、平安時代の陰陽師、小野篁(おののたかむら)が夜毎、冥府通いのため使っていたという井戸が残っています。
この日の京都は、最高気温が38度近くありました。
名物の「子育飴」です。
「菱六もやし」のもやしは麹菌のことです。
あちこちに路地(ろーじ)があります。
「六道」とは、仏教の教義でいう地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道の六種の冥界をいい、人は因果応報により、死後はこの六道を輪廻転生といわれています。この六道の分岐点で、いわゆるこの世とあの世の境(接点)の辻が、「六道の辻」です。
平安京の東の墓所であった鳥辺野に至る道筋にあたり、この地で「野辺の送り」をされたことや、小野篁の冥界への井戸があったことから「冥土への通路」とされたのだそうです。
天気が良さそうなので、急に思い立ってマイ・折り畳み自転車、DAHONで走りました。淀川の河川敷をのんびりと上り、木津川、宇治川、桂川が合流する三川(さんせん)合流域に向かいました。30分ほどでした。
木津川と宇治川が合流する先端に続く「背割堤(せわりてい)」は1.4kmも桜のトンネルが続く人気スポットです。昨秋の台風でたくさんの桜が倒れたと聞いていました。
27日に開花した桜は、ことしもきれいな薄いピンク色でした。
もうすぐ開花という蕾もいっぱいでした。
恒例の「背割堤さくらまつり」は、あす30日から4月7日までです。その前日とあって、まだ静かでした。
悲しい風景です。樹齢40年ほどの老木は、台風の強風に耐えられず、枝が折れてしまいました。根こそぎになった木もあります。このあたりは、上空がスカスカでした。
アチラの方の記念撮影に出くわすのも恒例になりました。
こちらはうらやましい光景です。ベンチに置かれているのはワインでしょうか。あすからは、人が多くてこうはいきません。
花もちらほらなら、遊覧船の客もまばらでした。「乗船料はあすから1500円のところ、きょうは500円」と客引きしてました。
わたしのDAHONです。久しぶりに乗りました。
さくらであい館の展望エレベーターは、ひと足早く27日から有料(300円)になってました。桜も咲いていないので、ご遠慮しました。
それでも観光バスまでやってきていました。
帰り道に、水無瀬神宮に寄りました。
枝垂れ桜は満開近しの状態でした。
話題の映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観ました。いまさらながらですが、そろそろ行かないと、終わってしまいそう。やっと時間ができました。
「あの人、だれ?」
10年も前に訪れたスイス・レマン湖畔のモントルーです。そのときは、フレディ・マーキュリーはもとより、クイーンのことも名前くらいしか知りませんでした。
右腕を天に突き上げて歌う姿が、映画の中で何回も再現されました。
出生、異彩を放つ風貌、セクシャリティーからくるコンプレックスを突き破ろうとするかのポーズでした。その先に圧巻の「We are the champions」がありました。
足元には「Lover of Life – Singer of Songs」と刻まれていました。
モントルーには、フレディの録音スタジオがあったそうです。フレディは、変わらずこの湖を見ていました。
隣町のブべーに立つチャップリンの像や、オードリー・ヘプバーンが暮らした村を訪ねることはできませんでした。でも、フレディには呼び寄せられたのでしょうか。
JR高槻の駅前にある「アレックスシネマ」は、平日の昼間とあって、ガラガラでした。あまり聞きなれない「爆音」に2時間ほど、さらされました。
体調もやっと回復したので、遅れてしまった初参りに出かけました。
京都・宇治田原の山の中にある猿丸神社です。瘤(こぶ)取りの神「猿丸さん」として親しまれ、近年は「がん封じ」の神さまとしても信仰を集めています。
調べてみると、わたしは2013年から毎年参っています。その前年の手術の前に、大津に住む義妹夫婦が参って、御守をもらってきてくれたのが縁です。おかげで、再発(再燃)もなく、7年目も元気に過ごすことができました。
「木のこぶ」が並んでいます。瘤取りのお礼に奉納されたものです。参拝者はこれを自分の体に押し当てて、ご利益があることを願います。
本殿の前には、石造の猿が鎮座しています。
今年も厄除けの笹をいただきました。
お茶所に入ると、薪が赤い炎を上げています。おしい煎茶をいただいて、温まりました。この辺りは宇治茶の産地です。
「猿顔絵馬」が人気です。目鼻を自分で描きます。
参道には、あちこちにツバキが咲き誇っていました。
猿丸神社
京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺粽谷44
0774-88-3782
宇治田原から宇治川の天ケ瀬ダム近くに出て、平等院の横を走って対岸にある興聖寺にやって来ました。わが家の墓があります。
年末の掃除にもやってこられなかったことを詫び、墓石をきれいにして新しい花を供えました。
法堂にお参りに行くと、昨日、行われた「新年大般若祈祷法要(秋葉講)」の真っ赤な幟が掲げられたままになっていました。
法堂の正面まで進むと、よく目立つ場所に母親が願主となって奉納した幟(のぼり)が翻っていました。
赤い幟で、いつもとは違った風景でした。
興聖寺は、道元禅師が「曹洞宗初開道場」として開きました。
興聖寺
宇治市宇治山田27-1
京都府最高峰の皆子山(971.5m)です。近く、友と登ることになりました。
古いアルバムをめくっていると、出てきました。高校生だったころの「紅顔の美少年!?」です。一緒に登ったクラスメートのHくんは、京一中から続く洛北高校の山岳部員でした。彼がシャッターを押してくれたのでしょう。左側の人はたまたま居合わせた方のはずです。
「山城三十山登山」の創始者で先輩の今西錦司氏が、この山の名付け親で、末娘に皆子と名をつけたという縁があります。三十山の最高峰でもあります。再訪が楽しみです。
アルバムの隣のページに張られていた写真です。
洛北高校では、3年生の秋の体育祭に仮装行列をするのが最大のイベントでした。夏休みから、何日もかけてクラスごとに大きな山車をつくりました。わたしのクラスは「くれおぱとら」でした。当日はみんなが仮装して学校の周りを練り歩いたのです。もちろん、わたしも写っています。
受験勉強もせずに、こんなことに精を出していたのですから、結果は自ずと明らかではあります。
このときのクラスメートが昨夜、久しぶりに京都・錦の料理店に集合しました。男性ばかり10人でした。あれこれと、思い出話は尽きませんでした。