小塩山のカタクリの花 2020

 京都・西山にある小塩山のカタクリです。下界を騒がせているコロナウイルスとは無縁の世界で、ことしも可憐に咲いていました。
 「外出自粛」が求めれています。「3密」には該当しないだろうと自己弁護して、独りマイカーで出かけました。麓の大原野神社の駐車場に車を止めて、何度も登っているルートをたどりました。最初のカタクリ保護地「炭の谷」まで1時間ちょっとでした。
 先週末くらいから一斉に開花したカタクリの花です。1輪だけですが、真っ白なカタクリにも出会えました。 

 花粉の運んでくれるギフチョウも飛んでました。でも、撮影はできませんでした。

 色エンピツでなぞったような模様が素敵です。

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神峰山の森自然園 春の草花


 
 カタクリの花と出会いました。
 ポンポン山の高槻市側の登山口のひとつ、神峯山寺(かぶさんじ)の「神峰山の森自然園」です。2月末に自宅から歩いてきたときは、まだ冬季休園中でした。リベンジしました。
 春の陽ざしを浴びてイナバウアーしたカタクリです。その美しさに、新型コロナウイルスにまつわる鬱陶しい気分がしばし癒されました。

 ミツバツツジが鮮やかです。3枚の葉が育っています。

 2株だけ花を咲かせていた可憐なニリンソウです。2つ目の花のつぼみも膨らんでいます。

 純白のイカリソウです。4枚の花弁が、船の錨(いかり)のようです。

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天王山 水無瀬の滝から秀吉の道を歩く

 天下分け目の天王山は、祝日とあって大勢の人が登っていました。
 ここは、豊臣秀吉を天下人にした合戦の舞台でもあります。ハイキングコースを地元・大山崎町が「秀吉の道」と名づけており、ルートには6枚の大きな陶板画が掲げられています。何気なく見過ごしてきましたが、改めて説明を読みながら下ってきました。

 天王山の頂上にあるのは「天下人への道はここから始まった」です。大阪城を築き、関白となった秀吉と千宗易が描かれています。
 陶板画は麓から順に時代を追ってますが、わたしは逆順に眺めました。

 少し下った酒解神社近くに「明智光秀の最期」があります。
 山崎の合戦で敗れた光秀は、近江・坂本城に逃げようとしますが、山科・小栗栖の竹やぶで落ち武者狩りの竹槍に刺され、自刃して果てます。

 旗立松展望台には、幅5メートルはあろうかという2枚の大きな陶板画が並んでいます。
 右は、「天下分け目の天王山」です。合戦は、山の上ではなく天王山東側の淀川沿いが主戦場となりました。

 左は、「頼みの将兵来たらず」で、あてにしていた娘、ガラシャの義父、細川藤孝もやってこず、筒井順慶は洞ヶ峠を決め込みました。

 三川合流展望広場には、「秀吉の中国大返し」が描かれています。


 
 中国攻めの総大将として出陣していた秀吉は、信長の死を聞き、即座に戻ってきて光秀と対峙しました。

「本能寺の変」は当時の勢力図が描かれています。
 アサヒビール大山崎山荘美術館の前にあります。こちらから登っていくのです。

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歩いて昼飯 背割堤の桜は、まだ蕾堅し

 きょうの10キロお散歩です。淀川をさかのぼり、三川(さんせん=桂川、宇治川、木津川)が合流する辺りを目指します。背割堤(せわりつつみ=淀川河川公園背割堤地区)の桜の開花具合が気になります。
 まだ早かったです。なんとか1本、つぼみが膨らんでいる木を見つけました。
 ほとんどは「蕾堅し」でした。この2日ほどは、冬に戻ったような寒さです。ちょっと足踏みしていたのでしょうが、あすからの気温上昇とともに、一気に開花へと向かうのでしょう。開花予想は23日、満開は30日だそうです。

 背割堤には約220本のソメイヨシノが咲き競い、桜見物の人気度では全国5位、京都府1位です。ところが2018年の台風で被害を被り、無残な状態になっている個所もあります。

 桃の花は、今を盛りと咲き誇っています。

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早春の陽ざしに誘われ 五月山公園から六個山へ

 早春の陽ざしに誘われ・・・というつもりでハイキングに出かけました。実際にはちょっと寒さが戻った1日でした。
 池田市の五月山公園から六個山(ろっかやま)、箕面までの10キロほどを歩きました。
 仲間の皆さんとの予定があわず、3人での山行となりました。

 眺望がすばらしいルートです。あちこちの展望台から、六甲からの山並み、遠く霞む淡路島、生駒連山と眺めることができました。

 つり橋も出現して、よく整備されています。ウイルスとは無縁の自然を、子供連れのファミリーや、われわれと同じシニアまで、大勢が歩いていました。

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天王山に春の香り 黄色いミツマタが満開

 天下分け目の天王山(270.4m)の頂上近くにミツマタの群生地があります。登山道からちょっと離れているため、その存在はあまり知られていません。わたしもネット情報で知ったばかりです。天気も良いので、カメラだけ持って水無瀬の自宅から歩いて出かけました。
 「和紙の原料は、こうぞ、みつまた」と、小学生のときに習った記憶があります。三椏と書く、そのミツマタです。名前の通りに3本の枝に別れた先に花がついてます。

 ジンチョウゲ(沈丁花)科の低木落葉樹です。春の香りがします。

 ボールのように丸くなって満開のようです。小さな花の集合です。

 こちらはつぼみが混じります。

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ポンポン山 福寿草に会いに行く 2020

 ポンポン山に福寿草(フクジュソウ)を見にやってきました。
 ことしは2月の初めに開花したそうで、すでに3番花。満開は過ぎてました。でも、初夏のようなポカポカ陽気を浴びて、黄金色にピカピカと光っていました。

 これがヤマシロネコノメでしょう。雄しべが8本あります。この地域にしか生育しない固有種で、京都府の絶滅危惧種です。

 こちらはネコノメソウでしょう。

 ノーブルにも見えるこの白い花は、ハコベのようです。

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関西百名山 絶好の日和~新雪の雲取山

 京都北山の雲取山に登りました。関西百名山を歩いてきた仲間との登山でした。
 ネットで調べた数日前の状況では、ほとんど雪はありませんでした。それが一変しました。真白な新雪に覆われていました。青空が広がり、天気もサイコー! ヘンなウイルスなどどこかに吹っ飛ばして、これ以上ない素晴らしい山行となりました。

 アイゼンをつけて、雲取山への最後の急坂を登ります。

 下りは渡渉の連続。これでもかというほど右岸、左岸を往復して谷を詰めました。丸木の橋は、慎重に渡ります。

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福寿草咲く春 黄色い花々

 好天に誘われて、自宅近くを散歩しました。マスクでガードしてますが、ウイルスではなく花粉症対策です。
 JR京都線の線路わきにある神内緑道で福寿草(フクジュソウ)が咲いているのを見たことがります。そろそろ咲いているかなとー。
 1株だけ、雑草の中に忘れられたように咲いていました。自生ではなく、どなたかが植えられたのが根付いているのでしょう。

 ポンポン山の福寿草保護地を見に行きたくなりました。

 クロッカスもポツリ、ポツリと咲いています。

 ラッパスイセンも混じります。

 花弁に光沢があるのはリュウキンカ(立金花)でしょうか。

 菜の花も咲いていました。

 カメラ片手に3.6キロ、1時間ちょっとのお散歩でした。

京都人の密かな愉しみ その9 雲龍院の走り大黒さん

 京都・東山にある泉涌寺の塔頭、雲龍院まで歩きました。
 「京都人の密かな愉しみ」(NHK-BS)ではオムニバスドラマ「わたしの大黒さん」で走り大黒天が登場しました。
 インバウンドが急減して、京都の町も静けさを取り戻したといわれます。ならば今こそと訪れました。
 「蓮華の間」に独り座ると、4つの雪見障子の四角いガラス窓から、4つの色紙の風景がのぞけました。椿、灯篭、紅葉、松。残念ながら色彩が乏しいシーズンでしたが、その光の取り込み方に感心させられました。

 「書院悟之間」の「悟りの窓」です。梅がすでに花を落としています。訪れるときによって、違った風景が見れるそうです。

 後小松天皇を描いた軸(写真撮影禁止)がかかる床の間の反対側には、四角い窓が開いています。

 「月窓の間」には、床の間の壁が月の形に開いています。そこから入り込んだ光線が、壁に三日月を描きます。

 四角い窓がならぶ障子です。

 水琴窟があります。ポツリ、ポツリと水がしたたり落ちます。

 縁側に腰かけて、竹筒の先に耳を近づけると、澄んだ音色が響きます。

 徳川慶喜が寄進した灯篭です。

 走り大黒天は、台所にあります。目の前で拝みましたが、撮影は禁止です。

 絵葉書の画像と朱印です。
 俵の上に乗った大黒さまとは違って、今にも走りだしそうな左足を踏み出しています。

 庭の河津桜は満開になっています。

 泉涌寺派別格本山 雲龍院
 京都市東山区泉涌寺山内町36
 075-541-3916 

 京都一周トレイルの東山コースが、ここを通過しています。何度もここまでは来たことがあります。

 広い泉涌寺には、人影がありません。

 JR京都から歩き始め、雲龍院を拝観。東山通り北上して東山三条のマルシン飯店で昼食。さらに東山丸太町まで歩いて左折、寺町を阪急河原町まで歩きました。
 9.84キロ、17000歩の「歩いて昼飯」でした。