京都の大文字山と比叡山にはさまれたエリアに斉明・天智・持統と天皇を冠した山々が連なります。猿丸も百人一首で聞いた名前です。
気になっていた山を、滋賀県側の比叡平からピストンしました。それぞれのピークには、おそろいのプレートがかかっていました。
田ノ谷(たのたに)峠からびわ湖側に下り、宇佐山を経て天智天皇が遷都した大津京跡まで歩きました。
持統山です。山頂といても尾根の連なりのコブくらいのもので、どこも眺望はありませんでした。
踏み跡は明瞭でしたが、倒木が多かったです。
宇佐山にある宇佐山テラスからは、大津の町やびわ湖が見渡せましたが、湖東の山々の視界はありませんでした。
JR湖西線の大津京から比叡平行きの京阪バスに乗りました。
【2025/06/04 10:29】
終点手前の比叡平三丁目で下車しました。大津京からここまで乗客はわたし1人だけでした。
比叡平の住宅街を抜けて、ここからスタートしました。
雷公園の奥から山道になりました。
地域の共同テレビアンテナが立っていました。
ルートは明瞭ですが、あちこちに倒木が横たわります。
大きな高低差はなく、20分ちょっとで最初のピーク、猿丸山です。
猿丸大夫は、百人一首にも登場する三十六歌仙の一人です。猿丸をご祭神とする猿丸神社(京都・宇治田原)は瘤取りの神として知られ、現代はがん封じの参拝者が多いです。わたしも毎年、正月に参っています。
ピークからあまり注意を払わずに正面の道を進みました。明瞭な踏み跡があり、ビニールテープも巻かれていました。でもこれまでのピンクテープと違うことに疑問をいだき、スマホのGPSアプリ、YAMAPで違ったルートを下っていることがわかりました。
山頂近くまで戻ると、違った方向にピンクテープは延びていました。
こちらが正しい「道」です。
程なく持統山です。
斉明山もすぐ近くです。
天智山への最後の登りです。
天智天皇の名を冠した山です。
大化の改新の中大兄皇子が即位後に天智天皇となりました。母が斉明天皇(皇極との重祚)、娘が持統天皇(天智の弟の天武天皇の后)と親子3代の名が連なっています。
小倉百人一首では1番が天智、2番が持統、5番が猿丸です。
京都市街がのぞけます。
比叡山もすぐそこですが、木々に遮られています。
「鈴鹿」と書かれた古いプレートもさがっていました。
斉明山も別名を蝙蝠(こうもり)山と呼び、持統山は油天神、猿丸山は岩戸と、祇園祭の山鉾にちなむ別名もありました。
そのまま進めば山中越と呼ばれる府道に降りることができます。でもかなり急な悪路です。わたしはここまででピストンにしました。
「おこしやす」と丁寧です。
猿丸山のちょっと手前に出てきました。行きはこのテープを見落として、ルートを誤りました。
あとは一気にと歩いていると、再び落とし穴でした。
このポイントで左にまっすぐ進んでしまいました。尾根上のはっきりとした足跡がありましたが、別ルートでした。正しいルートは右上を向いていました。
比叡平の住宅街が見渡せるところまで戻ってきました。
比叡平を通り抜け、山中越の府道を歩きました。
田ノ谷峠までやってきました。比叡山ドライブウエイの料金所があります。
滋賀県側の県道を下るとびわ湖が見えてきました。左上の塔が、これから向かう宇佐山です。
車が行き交う県道から分かれて宇佐山を目指します。
荷物運搬用のモノレールが山頂に向かって通じています。でもここを登るには急すぎます。
すぐ横にプラ階段の道が続いていました。これでも本日一番の登りでした。
宇佐山テラスまでやってきました。
びわ湖岸には高層のマンションが連なっています。
宇佐山です。
ここには宇佐山城の本丸がありました。織田信長が朝倉義景らの南進に備えてびわ湖と北国街道の抑えのために築城しました。
御城印というのがあるそうです。欲しかったですが、手入れる場所がわかりませんでした。
本丸の石垣が残っています。信長の安土城より古い築城で、貴重なものらしいです。
山腹には宇佐八幡神社の立派な社殿がありました。
山道は参道に変わりました。
近江神宮近くに下り、ちょっと歩いて錦織町までやってきました。ここが天智天皇が都を置いた大津京の跡です。
発掘調査で、遺構が見つかりました。
大津京ゆかりの柿本人麻呂の歌碑が立っています。
辺りにはドクダミが花をつけていました。
【14:13】
JR大津京まで戻ってきました。駅前のラーメン店に直行しましたが、定休日でした。あたりに適当な店はありません。京都まで戻りました。