ビロード革命の舞台

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 1989年11月17日に始まった民主化要求デモは、連日10万人を超える人々がこのヴァーツラフ広場(広場というが、実はプラハ市内中心部の大通り)を埋め尽くしたというこてです。
 いまでは、そんなことは昔話のようににぎやかなショッピング街でした。    (2005/05/18)

「ビロード革命の舞台」への3件のフィードバック

  1. 1989年は時を同じくして東欧中を吹き荒れた民主化革命の年でした。チェコスロバキアもその流れの中で、民衆の力が流血をみない画期的な革命だったんですね。共産主義から逃れてアメリカに亡命していたチェコフィルの指揮者ラファエル・クーベリックが帰国してチェコ・フィルとともにこのヴァーツラフ広場でスメタナの「My Fatherland」を演奏したとき、広場を埋め尽くした10万人以上の民衆が、流れる涙をぬぐおうともせずに、感動にひたった、と言われます。
    「プラハの春」といわれた民主化の動きはソ連軍の軍事介入でつぶされてしまいましたが、この広場はそれに抗議して大学生が焼身自殺をしたことでも、知られますね。「プラハの春」とは、今はもう音楽祭の名前でしか、知らない人ばかりでしょう。

  2.  イリさん、ずらりとコメントを書いてくださり、ありがとうございます。
     クーベリックの亡命先からの帰国演奏は、市民会館のスメタナ・ホールかと思ってましたが。この広場だったのですね。テレビの記憶も、野外だったような気持ちがしてました。
     確かに、現在の広場からは「革命」なんてにおいは感じられませんでした。

  3. このヴァーツラフ広場での演奏は確かですが、これとは別に田谷さんが言っておられるスメタナホールでの演奏は、それもスメタナの命日にやってるかも知れないですね。かもしれませんね。プラハの春音楽祭の起源でしょうか。「プラハの春」そのものは直接音楽とは関係なく、共産主義下で民主化自由化気運が盛り上がってきて、まさに共産主義から脱却できそうになったことを差しますね。これはワルシャワ条約を楯にしてソ連が軍事介入してつぶされましたが。それだけにチェコの人々にとっての「プラハの春」という言葉の響きには特別な感慨があるんでしょうね。

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