江戸時代の儒学者、貝原益軒の京都トラベルガイド「京城勝覧」を巡ります。2日目は『南禅寺より北銀閣寺吉田聖護院までの道をしるす』(『』は、原文です)です。
書の出立は三条小橋辺りですが、わたしは阪急・河原町から天王町まで京都市バスに乗り、南禅寺と永観堂はパスをして熊野若王子神社から歩きました。
『萬無寺』(法然院)は、紅葉のシーズンを前に静寂に包まれていました。
『鹿ケ谷』には、平安時代後期の僧、俊覚僧都が平家を滅ぼそうと謀議をめぐらせた山荘がありました。その地に「俊寛僧都忠誠之碑」が立っています。そこまで行こうと分け入りました。ところが、谷を越える橋が老朽化しており、通行止めとなっていました。仕方なくUターンしました。
大文字の火床で昼飯にしようとカップラーメンを用意していました。ところが、食べるチャンスを失しました。
『銀閣寺』まで下ってきて、「ますたに」でチャーシュー麺をいただきました。
『真如堂』の大きな本殿から西の空を振り返りました。真っ青な空に、3本のヒコーキ雲がかかっていました。暑い一日でした。
【2021/09/10 10:28】
天王町でバスを降りて、最初に向かったのは『光雲寺』です。初めてやって来た非公開の禅寺です。
徳川二代将軍、秀忠の娘で後水尾天皇の中宮だった東福門院和子の菩提寺だそうです。
哲学の道からも、立派な伽藍を見ることができました。
熊野若王子神社です。
熊野参詣道の京の起点です。わたしも熊野歩きを始めるときにお参りにきたことがありました。
若王子は「にゃくおうじ」ですが、「にゃこうじ」と呼んでいました。
ここをびわ湖疏水が流れていて、プールがありました。小学生のころ、夏休みには何回か市電に乗ってここまで水泳にやって来たものです。水が冷たかったことを覚えています。
現在は松ヶ崎浄水場若王子取水池となっています。
「哲学の道」は若王子から銀閣寺までの約2kmの散歩道です。
哲学者で京都大学教授だった西田幾太郎が、毎朝この道を歩いて思想に耽っていたことにちなんで名付けられました。貝原益軒の時代には、存在しませんでした。
紅葉はまだ先です。
どちらに行っても有名寺院です。
『鹿ケ谷』を登ります。良い天気になりました。汗が滴ります。
左の道を登っていくと、大文字の火床へ行くことができます。
目指す『如意が滝』(楼門の滝)と俊寛僧都の山荘後はまだ先です。
手前の梯子で川底まで下って、向こうを上れということでしょう。不安定そうで、ちょっと怖すぎます。
おまけに「通行禁止」の先です。さすがにここを通り抜ける気にはならず、あっさりとあきらめました。
15年ほど前に撮影した「俊寛僧都忠誠之碑」です。もう少し上部の谷筋に、突如現れたような記憶があります。
「京城勝覧」にも『談合谷』や「大」が描かれています。
谷筋から行けないかなと降りてみましたが、とても無理です。
来た道を下りました。正面は愛宕山です。
大文字の火床に通じる山道を登りました。
立派なキノコです。
大文字山の前衛峰とでもいうべき善気山(271m)まで登りました。
独り登ってこられたハイカーが「いい道でしたよ」と話されたので、わたしは法然院に向けて下ることにしました。
振り返ると、大文字の火床の中心が見えていました。
地図ではまっすぐに法然院に向けて下りますが、そちらは荒れていて通行止めです。
左の法然院観察の森に下ります。
気持ちの良い樹林の道を下ります。
ひんやりとした風が吹き抜けます。
法然院では、路端に座り込んで苔の手入れをしておられた作業員ら数人と出会っただけです。
銀閣寺の前も、人影はありませんでした。
「ますたに」で食べたチャーシュー麺です。背脂がギトギトの醤油味です。ネギの上の赤いのは、わたしが振った一味です。
チャーシューは、たっぷりと沈んでいます。
この時期、ビールは期待してませんでしたが、この店は普段からありません。
中華そば ますたに 北白川本店
075-781-5762
京都市左京区北白川久保田町26
食後は、『吉田山』に登りました。
山上のカフェ「茂庵」の前には、きょうも待っている女性がいました。
吉田山のピーク(三角点)はこの辺りのはずですが、確認できませんでした。
続いて『真如堂』までやってきました。
本堂の前の菩提樹が実をつけていました。
『黒谷」の金戒光明寺も、その立派さに圧倒されます。
最後は『聖護院の森』です。当時は、この辺り一帯が森だったようです。
聖護院とくれば、コチラを思いだしますね。
「京で一番古い」と称するアチラとは、裁判沙汰を演じていました。
東大路丸太町の角にある熊野神社に参って、本日のゴールとしました。
若王子熊野神社、新熊野(いまぐまの)神社とともに「洛中熊野三山」と呼ばれています。
「京城勝覧」は帰路、川端二条の『頂妙寺』に参りますが、そちらはいずれ・・・。