京の都の東山三十六峰を巡るウオーキングの2回目は、前回に続いて清水山から清閑寺山へと6峰をたどりました。ところが、プレート・ハンティングの結果は、無残にも6戦6敗に終わりました。
ここだけは確実にあるだろうと思っていた30峰の清閑寺山です。よく目立つ石塔が目印です。ところがありませんでした。
京都一周トレイルのルート上ですので、過去に何度も登っています。左は2015年7月、右は18年1月です。その後の台風か何かで、プレートが縛り付けられていた枝そのものがなくなったようです。
カテゴリー: 京の路地、図子、都への道
東山三十六峰 その1 粟田山から高台寺山、円山・・・
東山三十六峯草木も冥る丑満刻、突如轟き渡る剣戟の響き…
ホンモノの活弁は聞いたことはありませんが、そのセリフはなぜか耳に残る世代です。東には東山が連なる(西だと、井上章一の「京都ぎらい」です)京都で育ちました。
その三十六峰はほぼ確定されていて、当然のことながらそれぞれにピークがあり、名前があることに、最近になって気づきました。ならば登るのには手ごろと、とりあえずはいわゆる東山の北の端の三条通から円山公園あたりまでを歩きました。
26峰高台寺山、20峰粟田山。頂上にはそんな名札もぶら下がっていました。きょうは6座を「踏破」しましたが、プレートハントは2勝4敗でした。のんびりと三十六峰を巡ります。
25峰東大谷山への登頂ルートを探して大谷祖廟の最上部まで上がってきました。振り返ると、林立する無数の墓の向こうに、京都市街が霞んでました。
昼飯は、四条河原町まで戻り、久しぶりに餃子の「珉珉」で鉄板の「パオロー・イーガー、コーテル・リャンガー(爆羊肉1人前・餃子2人前)」をいただきました。
京城勝覧を巡る 第十五日 江州東坂本にゆく道
江戸時代の儒学者、貝原益軒が記した京ガイドツアー本「京城勝覧」に沿ったウォーキングは、びわ湖への道の2回が残っています。
桜も咲いたことだしと、第十五日を歩きました。
益軒は白川から山中を越えて坂本を目指します。帰途に小関越から山科に戻りますが、わたしは逆に山科からスタートしました。
びわ湖疏水の桜は、まだ咲き始めでした。
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京城勝覧を巡る 第十七日 上賀茂神社から正伝寺へ
江戸時代の儒学者、貝原益軒が記した京ガイドツアー本「京城勝覧」を巡っています。昨秋は第十四日の大原まで訪ねました。この後、びわ湖畔の坂本、瀬田方面と続きます。そちらは桜の咲くころにとっておいて最終第十七日の『たゞすより上賀茂千本までの道を記す』(『 』は京城勝覧の引用です)をマイカーで走りました。
『上賀茂の西の山下にあり。正傳寺』とある正伝寺の「獅子の児渡し」と名付けられた枯山水庭園です。比叡山を借景にしています。前日の雪が薄っすらと残っていました。
「デビッド・ボウイが涙した静寂」をそのままに体感してきました。
『たゞす』とは、下鴨神社の糺の森(ただすのもり)のことです。下鴨で育った身としては、さすが下鴨神社はいまさらという気にもなって省略させてもらい、上賀茂神社がスタートです。
父母が健在だったころは毎年元日、ここに一家そろって初詣にやって来ました。当時は通行を許されていた重要文化財の玉橋の上で記念撮影したことが思いだされました。
松の内は、関西では小正月の1月15日までです。「ことしもよろしく~」とお参りしました。
京城勝覧を巡る 第十四日 「声明」を訪ねて勝林院、来迎院と音無の滝
「京城勝覧を巡る」は、1ヵ月も空けてしまいました。第十四日は『小原(大原)にゆく道をしるす 京より四里あり』です。
『音なしの瀧をつたひてゆるくながるるゆへに音なし」(「京城勝覧」より)と同じ風景です。流れ落ちる水の音は、雑念がいっぱいなのかわたしには聞こえます。
「聲明(声明=しょうみょう)」とは、仏教の儀式において経文を朗唱する声楽の総称だそうです。来迎院を建立し良忍上人が、この滝に向かって修行していると、声明の音と滝の音が重なって音が聞こえなくなったそうです。だから音無の滝です。
大原は時雨れていました。枯れ紅葉にたまった雨滴が、差し込んだ太陽にきらりと光りました。
上高野の『御蔭神社』は、下鴨神社の摂社です。こんな山中に、これほどに立派な社がありました。
【2021/12/13 11:20】
10時ごろに車でわが家を出ました。終日500円の駐車場に駐車して、三千院などがある「大原女の道」を上ります。
三千院のかわいい朱塗りの朱雀門を横目にします。
来迎院も通り過ぎます。
「大原の里10名山」の大尾山への登山口です。仰木峠から北に続く尾根にあります。改めて登りたくなりました。
音無の滝です。ここまでやって来たのは初めてです。
滝から流れる川面は、落ち葉で覆われています。
三千院の前までやって来ました。紅葉のシーズンも終わって静かです。
突き当りが勝林院です。
勝林院は長和2(1013年)、寂源によって法儀声明念仏三昧の根本道場として建立されました。
『証拠の阿弥陀』です。
大原問答は、法然上人が勝林院で行った浄土の宗義について交わした論議のことです。法然上人が念仏によって極楽へ往生できること示したとき、本尊の阿弥陀仏がまばゆい光を放ったという言い伝え残っています。
わたし独りの静かな阿弥陀堂です。
平安中期の作で重要文化財の梵鐘は、大晦日除夜に響きます。
勝林院
京都市左京区大原勝林院町187
勝林院を出たところに、後鳥羽天皇、順徳天皇の御陵がありました。
後鳥羽天皇(上皇)をしのぶ法華堂は、わたしが住む水無瀬にある上皇の水無瀬離宮の建物が移築されたそうです。
鉈捨藪は、熊谷直実が大原問答で法然が敗れたときには、その法敵を討ち果たそうと袖に鉈を隠し持っていましたが、法然に諭されて投げ捨てたと伝えられるところです。
『梶井宮 宮御門跡なり』という三千院は、きょうは素通りしました。
マップの右上の「響き道」を歩きました。寂光院にも行きたかったのですが、小雨が降ってきたので遠慮しました。
八瀬まで戻ってきて高野川を渡り、『御蔭神社』を訪ねました。
ケーブルの乗り場や、紅葉で有名な瑠璃光院の前を抜けたところにあるパーキングに車を止めました。
これであっているんだろうかという山道です。
向こうから来る道との合流点に、場違いのように立派な鳥居がありました。
石段の参道が続きます。
鎮座地は、鴨大神が降臨された場所と伝えられる御生山にあります。東山三十六峰第二の山です。
ご祭神は、本宮の賀茂御祖神社(下鴨神社)と同じ玉依媛命、 賀茂建角身命の2柱です。
下鴨で長く過ごしましたが、こんな摂社があることは知りませんでした。
御蔭神社
京都市左京区上高野東山207
向こう側に歩くと、すぐに叡山電車の横でした。
京城勝覧を巡る 第十三日 「らーめん切符」で鞍馬へ
貝原益軒が記す江戸時代の京都ツアーガイドブック「京城勝覧」を巡る第十三日です。「鞍馬山にゆく道をしるす 京より三里あり」です。
鞍馬や貴船は、いく度となく訪れたスポットです。鞍馬街道を都まで歩いたこともあります。でも、おもしろいものを見つけました。鞍馬まで走る叡山電車(叡電)の「えいでん麺 京都一乗寺らーめん切符」です。1700円で叡電が1日乗り放題のうえ、一乗寺ラーメン街道の7店のうちで好きなラーメンを食べることができます。
展望電車「きらら」で鞍馬までやってきました。きららは、第十一日に比叡山に登った雲母坂からとられています。デオ900系には「メープルグリーン」と「メープルオレンジ」の2編成が走っています。
二ノ瀬-市原間にある「もみじのトンネル」です。紅葉のシーズンには、電車がゆっくりと走ってくれます。
真っ赤とはいえませんが、ずい分と色づいています。
昼飯は、ラーメン激戦区の一乗寺で、もはや古参となった「中華そば 高安」でいただきました。
観光列車「ひえい」で、比叡山の登山口・八瀬にも回りました。
2路線計14.4キロの叡電ですが、全線踏破しました。
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京城勝覧を巡る 第九日 紅葉には早い三尾を訪ねる
貝原益軒の記す「京城勝覧」の後回しにしていた第九日です。『高雄槇尾栂の尾に行道』です。高雄は高尾とも書いて、他の2つの尾と合わせて三尾(さんび)とも呼ばれます。いずれも紅葉の名所です。
ちょっと早いのはわかっていました。でも秋の観光客で込まないうちにと、車で出かけました。
昼飯は、静かな清滝川の川辺で、途中でテイクアウトしていた京都・穂久彩の「太秦のり弁当」をいただきました。
京城勝覧の1ページです。
「♬ 京都栂ノ尾高山寺 恋に疲れた~」は、「京都大原三千院」に続くデューク・エイセスの「女ひとり」のセカンドコーラスです。有名なお寺ですが、わたしは参ったことがありませんでした。
紅葉はまだ先ですが、きれいにグラデュエーションを描いている枝もありました。
高雄神護寺は、長い石段を登った山の中腹にあります。
平安時代に、文覚上人が再興した寺です。「盛遠と袈裟」の戀塚寺で書いた北面武士・遠藤盛遠その後の姿です。
神護寺では時代劇映画のロケが行われていました。300人はいるかという町人姿らのエキストラが群がり、金堂への正面階段から下の毘沙門堂にかけては市のセットが設えられていて近づけませんでした。
京城勝覧を巡る 第十二日 戀塚寺~盛遠と袈裟
江戸時代の京都ツアーガイド、「京城勝覧」(貝原益軒)に沿った京巡りは第十二日です。『鳥羽を通り山崎にゆくみち』が記されています。
『下鳥羽』の説明に、『道の東がはに戀塚寺(れんちょじ)あり。源渡(みなもと・わたる)が妻の塚あり。是鳥羽の戀塚(こいづか)なりといふ』とあります。
北面武士、遠藤盛遠(もりとお、後の文覚)が自ら殺めてしまった恋する袈裟(けさ)の菩提を弔うために建立したと伝えられている寺です。
高校生の時に初めて読んだ「新・平家物語」(吉川英治)以来の懐かしい名前でした。
境内には、袈裟の塚と伝わる宝筐印塔があります。
盛遠が北面武士として警護にあたった鳥羽離宮の南殿跡です。
京城勝覧を巡る 第十一日 雲母坂から比叡山に登る
貝原益軒が記す京都ガイドブック「京城勝覧」の第十一日は、「艮(うしとら=北東)」の方角で、「比叡山に行道をしるす」です。『きらゝ坂(雲母坂)』から『比叡山』に登ります。
雲母坂は久しぶりです。初めて登ったのは、小学5年でした。もう60年も前のことです。夏休みの自由研究の「比叡山に登る地図を作る」がテーマだったはずです。友だち2人と一緒でした。
ケーブル比叡駅には、大きな「HIEIZA」ができていました。あいにく曇っていたのでカラーがイマイチですが、とりあえず「還暦!登山達成」です。
大比叡(おおびえ、848.1m)上まで登りました。冷たい風が吹きつけ、冬到来を思わせました。
阪急を烏丸で降りて、志津屋四条烏丸店に寄ってきました。志津屋といえば「カルネ」でしょう。やはりうまいです。
京城勝覧を巡る 第十日 男塚女塚と橋本
江戸時代の京ツアーガイド「京城勝覧」(貝原益軒)の第九日は、「高雄槇尾栂の尾に行道」です。
きょうはちょっと天気も悪そうなので、第十日「八幡山にゆく道」を先取りしました。石清水八幡宮がある八幡までは、わが家から歩いてでも行ける距離ですが、車で麓を巡りました。
京城勝覧では『男塚女塚あり。女郎花(おみなえし)の名所なり』と記されています。
その女塚、通称「女郎花塚」は、石清水八幡宮の南にある「松花堂庭園」の中に残ります。
傍らに咲くオミナエシです。秋の七草のひとつですが、実際には夏から咲いていて、もうお終いです。
謡曲「女郎花」について説明されていました。
静かな松花堂庭園を一周しました。
江戸時代初期の文化人、松花堂昭乗が当初『石清水八幡宮』の境内に造った草庵「松花堂」などを明治になって移築した回遊式庭園です。
あちこちに茶室があります。
ただし、「松花堂」がある内園は、3年前の大阪北部地震の被害を受けて、修復のために閉鎖中でした。
椿園には、いろんな椿があります。今は花はありません。
土産店は「おみなえし」という店名でした。
入園料は100円でした。
隣には、松花堂弁当が食べられる「京都吉兆 松花堂店」があります。ただし、本日はまだ閉まっていました。開いていても、5000円オーバーの弁当です!
「京都吉兆 松花堂店の松花堂弁当」はコチラ。
この辺りの住所は「八幡女郎花」です。
東高野街道を1.5キロほど北に戻り、八幡市図書館へ右折した路地です。
アスファルトに埋もれかけて、「小野頼風塚」の石碑が立っています。
民家の間をすり抜けたところにある『男塚』、通称「小野頼風塚」です。
芦は女塚の方にたなびくので「片葉の芦」と呼ばれるそうです。残念ながら、雑然と茂ってました。
東高野街道は高野街道につながり、高野山に達します。さらに小辺路を熊野神社まで歩いたことがあります。
男女は『放生川』に身を投げまし。
左の鳥居が、『山下にも高良(たから)のやしろ有』と記された高良神社です。
車で走れば10分ほどの橋本までやってきました。大坂と京都を結ぶ京街道の中間にあり、石清水八幡宮の参詣口としてもにぎわった町です。
コインパーキングに駐車して京阪電鉄の踏切を渡ります。向こうには、雑草の茂る空き地がありました。
こちらは3年前の資料写真です。友だちと折り畳み自転車、DAHONで走ったことがります。
橋本遊郭の歌舞練場だった立派な2階建てが残っていました。すでにツタで覆われていますが、朽ちて撤去されたようです。
そのときに教えてもらった西遊寺の門前の石碑です。
「湯沢山茶九蓮寺」と彫られています。
山崎の合戦の折、立ち寄った羽柴秀吉が茶を所望したところ、洞ヶ峠を決め込んだ寺は、湯だけを提供したそうです。そこで秀吉の命名です。「ゆ たくさん、ちゃ くれん 寺」
ちょっと見には、古い街道筋の風情です。
こんなに装飾を施しているのは民家ではありません。
今は旅館になっています。営業を続けている店は、多くはありません。
軒下に残る電燈照明の跡です。これが遊郭だった名残です。
渡し場の跡です。
柳谷観音、山崎、愛宕と対岸の地名が並びます。
淀川堤防から町並みを振り返ります。
正面が天王山です。アサヒビール大山崎山荘美術館の赤い屋根が見えます。
西を向くと、水無瀬のわたしの住むマンションも見えています。
京阪橋本駅前の食堂で昼飯を食べて帰宅しました。