イラゴ峠の鉄の十字架に祈りを込めて大阪・住吉大社でいただいてきた「五大力」の石を置いた。
ポンフェラーダまで28kmほどのステージだった。
ポンフェラーダの広場のカフェ。海鮮サラダでいっぱい。最高のひと時。
12世紀に建造されたポンフェラーダのテンプル騎士団の城。シエスタのため、内部には入れなかった。
イラゴ峠の鉄の十字架に祈りを込めて大阪・住吉大社でいただいてきた「五大力」の石を置いた。
ポンフェラーダまで28kmほどのステージだった。
ポンフェラーダの広場のカフェ。海鮮サラダでいっぱい。最高のひと時。
12世紀に建造されたポンフェラーダのテンプル騎士団の城。シエスタのため、内部には入れなかった。
イラゴ峠の手前にあるフォンセバドンは、アルベルゲが数軒とホスタルが1軒あるだけの村です。
「Monte Irago」というアルベルゲに泊まりました。宿泊費は8€と、ちょっと高めです。夕食も予約しました。他に食べに行くところはありません。9€でした。
パンにベーコンやサラミを載せていただきます。
ワインは飲み放題です。
メーンはこちら。ズッキーニ、ピーマン、タマネギと野菜中心です。ご飯がうれしいです。
前に座ったマドリードの大学生は、野菜が苦手らしく、ほとんど残してました。
お代わり自由です。
なんという料理なのかは不明です。
デザートはご愛嬌のアイスクリームです。
コミュニティ・ディナーといって、みんなでいっしょに食べます。これがなかなかたいへんです。みなの会話についていけません。
朝食もこみです。
ヨーグルトにシリアル、バナナを入れていただきました。こんな朝食は、初めてです。
コーヒーにはたっぷりとミルクと砂糖を入れます。
登ってきたアストルガの方面が望めます。
イラゴ峠の麓の村、フォンセンバドンまで26kmほどのステージ。この日も、きれいな月に向って歩き始めた。
山道に入ると、これまでとはちょっと違った景色が。松林だった。
フォンセンバドンのアルベルゲ(右)から、向こうに広がるアストルガ方面を眺めた。
鉄の十字架が立つイラゴ峠の麓の村がフォンセバドンでした。標高1400メートルを超えた南向きの斜面にありました。
12世紀に、キリスト教の隠修士が教会と簡素な病院を建てたのが、この村の始まりだそうです。聖地・エルサレムがイスラム教徒によって占拠されるなどしたため、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼がヨーロッパ中の信者の間でブームとなったのです。それも16世紀になってすたれ、辺鄙な地にあったフォンセバドンはいつしか人の住まない廃村になってしまいました。
サンティアゴへの巡礼が再び脚光を浴びるようになったのは、わずか4半世紀ほど前のことです。それが今では年間30万人近いペルグリーノが歩くほどになりました。これはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼者事務所がコンポステーラ(巡礼証明書)を発行した数で、観光に訪れた人を含めればもっともっと多いはずです。
フォンセバドンには、ここ数年で5軒のアルベルゲと1軒のレストラン兼ペンシオンがオープンしました。民家は1軒もないので、すべてがペルグリーノに1夜のベッドや食事を提供することで成り立っているのです。
カミーノに沿った大都市には大聖堂がそそり立ち、町村には立派な教会が立ってました。どれも数百年の由緒をもっているような、素晴らしいものがほとんどでした。「太陽の沈まぬ国」といわれたスペインの16世紀ごろの富の蓄積とその栄華には、感心するばかりでした。
現代のスペインでも、帰り道に立ち寄ったバルセロナのサグラダファミリアのようにすごい教会が建造されています。ところが、カミーノに沿った町村でも人影はまばらで、空き家が目立つところも多くありました。地方の過疎化は深刻なようでした。
ペルグリーノが落としていくカネが、カミーノの町村の振興にすこしは貢献しているのでしょう。わたしが、あちこちのバルで飲んだビール代が、わたしのノドだけでなく、そのバルを、ひいては巡礼路の経済を潤しているのだと考えると、ちょっとうれしくなりました。
サンティアゴ巡礼路は、日本の熊野古道と姉妹巡礼路になってます。「デュアル・ピルグリム」といって、両方の道を歩いた人には、共通の巡礼証明書が発行されます。同じように「巡礼で地域お起こし」という願いが込められているのでしょう。応援いたします。
夕刻のアストルガの広場でSさんと出会いました。「いま、Kさんとスパゲッティを作って、食べたとこですよ。一緒だったらよかったのに」。わたしは2人とは違うアルベルゲに泊まっていました。
日本人ペルグリーノが持っていた最もポピュラーなガイドブックは「聖地サンティアゴ巡礼」(NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会、ダイヤモンド社)でしょう。帰国後に改めて読み返すと、アストルガのページには「坂を上った広場のすぐ左手に・・・公営アルベルゲがあり、日本友の会とも交流がある」と書かれていました。これを読めば、その夜の宿は確定するでしょう。現在も、日本人女性がボランティアで働いておられます。
わたしもこの本は、何度も読んでました。ラインマーカーでカラフルになっています。それでも持ち歩くガイドブックはひとつと決めました。思案の末に選んだのは、「A Pilgrim’s guide to the Camino de Santiago 」(John Brierley)の方でした。決め手は、地図が載っていることでした。友の会の方はPDF化して、スマホに入れていました。ときどき、スマホの小さなページに目を凝らしてもいましたが、この日は読んでいなかったのでしょう。
中学生のときに山登りを始めて以来、国土地理院の発行する5万分の1地図は必携品でした。実際に歩いたルートには、赤線を引きました。地図を読むことはもとよりそれが増えていくのも楽しみでした。知らない道を歩くときは、地図がないと不安になります。
John Brierleyのガイドブックは、英語圏のペルグリーノには絶大な支持を得ているようでした。平均的な1日の行程が、概略的ではありますが1ページの地図となってます。その地図には、通り過ぎる町や村などの地名、アルベルゲやオテルなどの宿泊施設はもとより、教会から水飲み場まで、そして主な区間の距離などが細かく記されています。
別のページには、アルベルゲなら18/3(ベッド数/部屋数)といった規模、料金や特徴などのデータがついてます。教会や見るべきスポットのガイドも充実しています。
わたしは、こちらを選んだので、おおかたの日本人ペルグリーノと一定の距離感を保てたのかもしれません。とはいえ、英語です。疲れ果てたアルベルゲのベッドで読むのはひと苦労でした。
インターネット上のガイドやスマホ・アプリも、いくつもあります。わたしもいくつかのアプリをインストールしていました。計画段階では、たいへん重宝しましたが、実際に歩いてみると、地図なんてなくても、ホタテ貝や黄色い矢印を追っていると、サンティアゴ・デ・コンポステーラにたどり着くというのも現実でした。ま、巡礼の荷物が重くならないよう、気にいった1冊で身軽になることです。
大聖堂の町、アストルガまで20kmほどのステージ。
歩き始めたころには、ちょっと雲に隠れて満月が出ていた。日本では中秋の名月だった。
ドナティーボの休憩所。よく冷えたスイカが甘かった。
アストルガの大聖堂。荘厳な雰囲気だった。
続きを読む Paso a paso Dos 24日目=9/17 アストルガへの道