パラス・デ・レイまで25kmほどのステージ。足の痛みも、徐々には軽くなってきた。なんとか歩ききれそうだ。
雲海の彼方に墨絵のような光景が広がった。
サリアを過ぎてから、一段とみどりが濃くなった。
昼飯に食べたのは、パン地に包まれたオムレツの具のようなものだった。おいしそうだったので、「それちょうだい」と指さした。
パラス・デ・レイまで25kmほどのステージ。足の痛みも、徐々には軽くなってきた。なんとか歩ききれそうだ。
雲海の彼方に墨絵のような光景が広がった。
サリアを過ぎてから、一段とみどりが濃くなった。
昼飯に食べたのは、パン地に包まれたオムレツの具のようなものだった。おいしそうだったので、「それちょうだい」と指さした。
やっとのことで到達しました。聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラまで「あと100km」のモホンです。
でも、今回もちょっとヘンです。3年前と場所が違うし、肝心の数字もフェルトペンで書かれています。
「写真、撮ってやろう」という申し出にありがたくポーズを決めましたが、半信半疑でした。
やはりさっきのは偽物でした。
こちらのモホンは、「km100.000」と石に刻み込まれています。それをフェルトペンでなぞってます。
いたずらまで前回と同じでした。
ガリシア州に入ると、すべてのモホンが一新されてました。3年前は、0.5kmごとに規則正しく立ってました。
新しいモホンは、距離数こそ小数点以下3 ケタと正確ですが、間隔は適当です。前の方が良かった気がします。おまけに距離表示は、別のプレートを張り付けているので、剥がされてなくなっているのが多いです。
おしろいばなは、同じ場所に同じように咲いていました。
同じカフェで、同じコーラを飲み、同じようにおいしかったです。
帰国後のある日のことでした。翌日は義父の三回忌でした。妻がダークスーツを出してくれました。試しに着てみると、ぴったりでした。でも、何だかヘンでした。ラベルを見ると、なんと独身時代に実父が作ってくれたテーラードの上物でした。
わたしのウエストは、歳とともに太くなりました。このダークスーツも着られなくなって、吊るし(レディー・メード)の安物に買い替えていました。
巡礼に出発する前年夏の体重は66キロ余りでした。学生時代より10キロほど太り、ここ何年かはこの体重でした。時間ができたのと巡礼を意識して、秋からアスレチック・ジムの会員になって週に2-3回、汗を流すようになりました。1回2時間ほどの運動でしたが、効果はありました。妊婦さんのように膨らんでいた腹が、若干なりともへこみました。体重も2キロは減りました。
巡礼から帰って来て体重計に載ると、なんと61キロ台しかありませんでした。スラックスのベルトが、さらに1段、細くなっていました。
巡礼中は、おいしいものを食べ、ビールやワインをしこたま飲みました。結構、野放図な毎日のはずでしたが、それでも吸収するより、消費するエネルギーの方が多かったことが見事に証明されました。
減量にも効果があるサンティアゴ巡礼です。
ところで父が作ってくれたダークスーツや、その父の葬儀の日に初めて腕を通したモーニングスーツは、京都・三条にあった某テーラー製でした。梶井基次郎の小説「檸檬」に出てくる洋品店「丸善」が当時にあった辺りです。父はここで何年間に1着のスーツを誂え、それをシーズン通して着ていました。わたしはそこで給料の大半が飛んでいくようなスーツを誂えくらいなら、バーゲンの吊るしを何着か買って、それを着まわすサラリーマン生活を送ってきました。
さらには、着の身着のままに近い汗臭い服でも気にならずに、毎日同じ服でスペインの巡礼路を歩いているほうが楽しい人間に育ちました。
ガリシア州の巡礼マスコット、シャコベオが迎えてくれた。
ポルトマリンまで22kmほどのステージ。痛い左足首は気になったが、一度歩いたことがるあ懐かしい道だった。
ゆっくりと歩いてきたが、昼前にはポルトマリンに到着。
昼飯はカフェでアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノを。オイル系のパスタは珍しく、唐辛子もよく効いておいしかった。
続きを読む Paso a paso Dos 32日目=9/25 懐かしい道を
イベリコ豚のハモン(生ハム)を味わいました。サリアの夕食です。
「似顔絵師」のK氏とばったり。「飯にしますか」とぶらぶら探して、駅前ホテルのレストランに入りました。ちょっと高級のようですが、たかがしれてます。
どのくらい熟成させているのでしょうか?
これで1人前です。
2人でつまんでも十分なボリュームです。
サラダも山盛りです。
rice with vegitableなるものを頼みました。パエリアよりはおじやっぽいです。でも、米はうまいです。
隣り合わせだったカナダ人です。サリアから歩き始めるそうで、いろいろと聞いてきました。
K氏は、似顔絵を描いて誰とでもすぐに友だちになってしまいます。
ワイン1本も入れて2人で41 €でした。
サリアに連泊して、きょうは休養日にしました。静かなホスタルでぐっすりと眠り、さて朝飯です。
巡礼道にあるカフェでモーニング・セットです。オレンジ・ジュースにカフェ・コン・レチェ、トーストが3 €です。
サンタ・マリア教会の坂を下ります。壁面に巡礼者が描かれてます。
ぶらぶらとrenfe(スペイン国鉄)のサリア駅まで歩いてきました。客は一人。列車はいつやって来るのやら。
手持ちのユーロが少なくなったので、ATMで引き出します。
ファーマシア(薬局)に寄り、足首のテーピング用のテープを買いました。レオンで買ったのが、なくなりました。
大きなスーパーメルカドがあったのてのぞいてみました。魚が豊富です。
いかつい顔をしてメルルーサです。
お前はアンコウか?
こいつはたぶん初対面。
見飽きない光景です。
チーズやハム売り場も広く、生ハムもぶら下がってました。
バーボンは、日本とそれほど変わらない価格です。
スーパーの視察を終えて、元来た道を帰りました。
サリアで1日、「停滞」した。左足首が腫れてきて、とても歩けなかった。もはや、ここまでかとも覚悟した。
四国の「区切りお遍路」と同じで、サンティアゴ巡礼でも何回かに分けて聖地、サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼者は大勢いた。わたしはサリアからは歩いているので、2回に区切って到達したことになる。でも、サン・ジャン・ピエ・ド・ポーからここまで歩いてきたのに…。
この日は休養日と決めて、オスタルのベッドでのんびりと過ごした。
歩くことが日課になってたが、それができずに退屈して町に散歩に出てみた。四国のお遍路でお馴染みだったスティッカーが張られていた。
モリナセカに「CAMINO友好記念碑」が建っていた「NPO法人遍路とおもてなしのネットワーク」の松岡敬文さんらとは前日、サリアの町角でお会いした。ご一行が止まっておられたアルベルゲだった。
夕食はサリア駅前のレストランで。この旅で一番おいしいハモンだった。
8月25日から歩き始めた巡礼です。ちょうど1ヶ月でサリアに着きました。サンティアゴ・デ・コンポステーラまであと110 キロほどのところです。ここから歩くとコンポステーラ(巡礼証明書)がいただけるとあって、ここを出発地とする巡礼者が一番多い町です。
わたしも3年前にやって来た思い出の地です。
四国のお遍路と同様に、サンティアゴ巡礼でも何回かに分けて「区切り巡礼」をする人が多かったです。となると、わたしはサン・ジャン・ピエ・ド・ポーからサンティアゴ・デ・コンポステーラまで歩ききったことになります。
サンタ・マリア教会にこれまでの旅を報告、残りの旅の平安を祈りました。
巡礼では、パスポートに相当するクレデンシャルに教会やアルベルゲなどでスタンプをもらいます。わたしも36 個目となるスタンプをいただきました。
サリアの町の入口です。
Sarriaの文字を初めて見て、到達を実感しました。
こちらはサリアの町の出口です。3 年前のまだ暗い朝、緊張して歩き始めたのでした。
まずは乾杯です。自分自身をお疲れさまとねぎらいました。
ちょっとすまなさそうではありました。でも、わたしの胸にはグサリと刺さる予想もしなかった言葉が返ってきました。
左足が痛くて歩けませんでした。2連泊したサリアの2晩目は、旧市街の巡礼路沿いにあるオステルでした。2階にあるわたしの部屋の窓の下は、隣のバルの中庭になっていました。パラソルにテーブル、椅子が並んで、心地よさそうなスペースでした。
すでに夜の10時を回っていました。それなのにギターをかき鳴らす音。ドラムスがリズムを刻み、あげくはバグ・パイプと同じあの楽器がプーカブースカと、とてつもなく息の長い音を果てしもなく垂れ流し続けていました。
灯りを消した窓から騒音の源に向かって、「シー」と声を発しました。でも無視されてしまいした。歌声は最高潮に、拍手は鳴りやまみそうにありませんでした。
とても寝ておれる状況ではありませんでした。わたしは痛い足をひきずって、泊まっているオステルの管理人でもあるバルのマスターに苦情を言いに行きました。
「いくらなんでもひどいじゃないの。こんな時間に。寝てられないじゃないの」
不自由な英語ですが、可能な限りの怒りを込めて言い放ちました。そのとき返ってきたことばです。
「This is Spain!」
なるほど、とそのことばにヘンに納得させられました。スペインでは夜の10時は、まだ宵の口ということなのでしょう。ヨーロッパ標準時を採用する国では西の端にあり、おまけに夏時間でした。朝日が昇るのが午前8時台、沈むのも午後8時台というのが1日でした。
それはわかるとしても、ここはカミーノ沿いのアルベルゲやオステルが並ぶ場所ではないですか。ペルグリーノはみんな朝が早いのでした。オステルの管理人だったら、それくらいわかってくれても当然ではないでしょうか。わたしが身勝手だったのでしょうか。腹立ちの対象は、騒音を発している若者たちだけではなく、それを静止しようとしない管理人にも向いてしまいました。
「なんとかしくれよ!」
わたしは精一杯の啖呵を切って、バルを後にしました。管理人は、外まで追ってきました。すまなさそうに、「これを使ってくれ」とスポンジでできたイヤーキャップ(耳栓)を差し出しました。
「I’m not Spanish!!」
腹立ちまぎれに、そんなことばを思い浮かべました。