京都北山にある山小屋「北山荘」まで歩きました。立派に管理され、今も現役です。
わたしが中学生だった時に初めて訪れました。洛北高校生だったときに友と一夜を過ごした記憶があります。
北山荘は西堀栄三郎(第一次南極越冬隊長)、今西錦司らが京都北山に造った山小屋です。北山の会(京一中・洛北高校・鴨沂高校山岳部のOB)によって維持、管理されています。
施錠されておらず、だれでも利用できるようです。
土間に囲炉裏。50年前と同じです。昔の日が蘇ってきました。
内装は手が加えられてきれいになってますが、骨組みは建設当時と変わらないそうです。
「雪山讃歌」の歌詞が掲げられています。
西堀栄三郎作詞の一部、「煙い小屋でも黄金の御殿」は、この小屋のことを歌っています。
小屋の前には、クリンソウ(九輪草)がきれいに咲いてました。
【08:36】
北大路堀川のバス停です。居合わせたおばちゃんハイカーに「コミュニティーバスはここですか」と聞きました。
1日2便が雲ケ畑との間を往復するコミュニティーバス「雲ケ畑バスもくもく号」です。雑誌「山と渓谷」に付録でついていた「関西周辺登山バス時刻表」には、北大路駅前のバス停が「烏丸北大路を西へ(本当は東へ)150メートル」と記載されていました。ところが、次のバス停は北大路新町。おかしいなとそれからネットで調べると、そこは止まらないことがわかって、さらに一つ先の北大路堀川まで歩きました。
無事乗り込んだジャンボタクシーは9人乗り。住民とおぼしき女性は1人で、あとは桟敷岳に登るというおばちゃんハイカーのグループと私だけでした。
昔は雲ケ畑まで京都バスが運行していたのですがね。
出合橋で下車しました。
新聞も運んでました。朝刊各紙が一緒になってます。運転手は「ボランティアです」。ありがとうございます。
【09:09】
出合橋から歩き始めました。
【09:34】
林道を歩いて松尾谷分岐まで来ました。ここまでマイカーでやってくるという手もありました。
昔は、このあたりでも木馬道(きんまみち)があった気がします。伐採した北山杉をそりに乗せて、木で作った梯子のような道を滑らせて運び出していたのです。北山では、谷という谷に木馬道が通じてました。当時でも廃れかけていましたが、まだ現役の個所もあった、木道は油がぎらぎら。雨の日は滑って歩くのが怖かったです。
道がピンクに彩られています。
見上げると、ウツギでしょうか。
クリンソウも咲いています。
群生することなく、こちら1本、あちらに1本という感じでした。
【10:12】
直谷山荘が現れないなと歩きました。それにしては時間がかかっています。
向こうに小屋がみえました。でもそれは麗杉荘(れいざんそう)でした。直谷山荘はなくなって久しいようです。
麗杉荘は「北山の父」とも呼ばれた森本次男によって建てられ、紫野・西京高校によって維持されていました。北山荘と並ぶ由緒ある山小屋でしたが、今は朽ち果てる道を歩んでいるようです。
【10:25】
林道から左折して柳谷峠への道を進みます。
やっと山らしい山道になりました。
【10:40】
「北山の小舎 発祥の地」のプレートがありました。このあたりに西堀らが建てた初代の北山荘があったそうです。
もう少し行くと、今西錦司のレリーフがありました。登山家にして生態学者、文化人類学者です。
【10:46】
魚谷山への案内板があります。ルートから外れる右手に何やら建造物が見えました。
北山荘です。
この角度に見覚えがります。昔は、こちら側に道があったはずです。
【11:46】
北山荘で思い出にひたったあと、魚谷山へ向かいました。
ところが柳谷峠までもう少しのところで、詰める谷を誤り、右手に進みました。確かに踏み跡はありました。ところが、やがて雑木林の中に迷い込ンでしまいました。でも大丈夫。目印の赤いテープを見つけ、こちらのはずと思った方向に進むと、ルートに戻りました。ちょっと疲れて戻ると、三角形に歩いて谷を誤った地点に出てきました。
北山荘に戻って昼飯にしました。
地下鉄・北大路駅の地下にあったコンビニで買ってきた弁当とカップ麺です。
インスタントのコーヒーもいただきました。
【13:09】
帰りは滝谷峠から貴船口へ向かいました。
【13:50】
急坂の連続を下って、芹生に通じる林道まで降りてきました。
貴船神社の奥の院です。
納涼床のあたりは、早くも観光客でいっぱいでした。
【14:15】
「下界」は猛暑です。叡電の貴船口まで歩くつもりでしたが、そこまで観光客を運ぶ臨時バスに乗りました。