「数」ある欧州旅 『30』

 「あがり」の「30」はたくさん見つかりました。まずはスペイン編です。

 フランスのサン・ジャン・ピエ・デ・ポーから780キロに及んだサンティアゴ巡礼でした。
 モホン(石柱)の数字は「あと30キロ」を示していました。ガリシア州に入り、ユーカリの木陰の道が多くなりました。早く着きたい、いや着きたくないという微妙な気持ちで、愛おしみながらゆっくりと歩きました。

 オ・セブレイロの峠の麓の村には、引馬が待っていました。わたしは左足が痛くなり、引きずって歩いてました。この馬の背に乗ってという誘惑と闘い、結局は苦しみながら歩きました。

 高速道路の向こうにレオンの街が見えてきました。気分的にはここで全行程の半分(距離的には3分の2)でした。なんとかゴールまで歩けそうという自信もついてきました。

 最初の巡礼でサンティアゴ・デ・コンポステーラで1泊した翌朝です。前夜遅く、宿に戻る道がわからなくなり、何度もここを歩きました。真っ暗闇に、赤いサークルが異様に浮かんでいた正体がこれでした。

 2回目の巡礼の最後はバルセロナでした。この辺りで、奥さまらへのみやげにスカーフを3本、買いました。

 プラハは「百塔の町」と呼ばれる美しい町です。そこをペアシートに座って上空から見ようという遊覧バルーンです。

 スイスーイタリア国境の町、ティラーノからレーテッシュ鉄道ベルニナ線に乗りました。長い列車が路面を走り、やがてブルージオのオープン・ループ橋へと進みました。右に左に、カメラを構えるのに忙しかったです。

 映画「第三の男」で有名なウィーンのプラーター公園にある大観覧車です。上部からはシュテファン寺院も臨めました。

「数」ある欧州旅 『29』

 「29」で窮地に陥りました。苦し紛れの29分です。
 スペイン・サンティアゴ巡礼のほぼ中間にある大聖堂の町、レオンです。翌日は休養日と決めていたので、夜の町を楽しみました。それにしても寒かったです。小雨も降って、9月中旬というのに、10度まで下がっていました。ダウンを着てました。
 スペイン人って、薬が好きなんだ! と実感しました。あちこちに、日本のコンビニのような感じでファーマシア(薬局)がありました。お決まりのように緑十字の電飾看板があって、時刻や気温を表示してました。

 プラハ本駅です。ドレスデンまでEC(急行)に乗りました。EC172の行先はハンブルクでした。国境を越えましたが、シェンゲン協定の締結国間では、パスポート・コントロールはありません。
 2等でしたが、途中から遠足帰りの中学生が大勢、乗り込んできて、車内は大にぎわいとなりました。

「数」ある欧州旅 『28』

 小学校は2学期が始まりましたが、まだ夏休み宿題の絵日記で苦労してます。

 プラハ本駅です。ここはHbf(中央駅)とはいいません。アール・ヌーヴォー風の芸術性が高い駅舎が素敵です。
 1918年10月28日は、チェコスロバキアが独立した日です。それはハプスブルク家のオ―ストリー=ハンガリー帝国が滅んだ日でもあります。

 ジュネーブにあるジャン=ジャック・ルソーの生家に掲げられていたプレートです。「社会契約論」でしたか。よく知りません。

 見ればわかります。Pimentsはトウガラシです。ブリュッセル郊外の市に並んでました。

 

「数」ある欧州旅 『27』

 「27」も見つかりません。
 苦し紛れに最初のスペイン・サンティアゴ巡礼で、マドリード・チャマルティンからサリアまで乗ったrenfe(スペイン国鉄)の特急、ALVIAのチケットです。料金は€27.8(付加価値税を含む)です。
 renfeのHPから予約して、プリントアウトしたものです。そのままチケットとなります。renfeには早期割引の制度があって、当日料金の半額以下で購入できました。そのため、Preferente(1等)を奮発しています。

 ベルギー・ブリュージュへは、ベルギー国鉄のweekend ticketを利用しました。土、日曜は、2駅間の往復が半額になるお得な乗車券です。ブリュッセル中央駅を27分に出発しました。

 再びオールマイティーの登場です。
 ブリュージュの前に訪れたゲントのトラムです。ドアの横に黄色いボックスがあります。チケットを上から差し込んでバリデーション(日付を刻印)します。
 ずらりと並んだ数字ボタンの使い方は不明です。

「数」ある欧州旅 『26』

 スイス・モントルーのレマン湖畔にかっこいい像が立ってました。フレディ・マーキュリー。それ、だれ?
 ロックとは縁がありません。クイーンのボーカリストでした。最後の作曲、レコーディングをモントルーのスタジオで行ったそうです。
 肝心の「26」は、幟の中です。

 わたしが好きなのはこちら。
 ドイツ・ライプツィヒで6月に行われる「バッハ・フェスト(音楽祭)」で、バッハ・コレギウム・ジャパンの「マタイ受難曲」を聴きました。バッハの仕事場だった、そして地下に眠る聖トーマス教会の中央から2列目の特等席でした。

 「26」が2カットしか見つかりません。そこで、用意していたオールマイティ―の出番です。
 ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会でダヴィンチの「最後の晩餐」を鑑賞しました。借りた音声ガイドには、0から9までの数字が並んでいます。日本語が26であったかどうかは忘れました。

「数」ある欧州旅 『25』

 「25」は、都市交通の3つが並びました。

 ウィーンのトラムです。古い町には、古くて丸い車両が似合います。それにしても「年収25%プラス」って、何の広告だったのでしょうか。

 ザルツブルクのバスです。天気が良いので、郊外のアニフという村まで大指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンの墓参りに出かけました。
 カラヤンが暮らした村の教会の片隅にある墓は、驚くほど質素でした。

 ベルリンのSバーンのブランデンブルク門駅です。門は、東西分断と統合のシンボルです。

 ブリュッセルで飲んだビールです。ベルギービールは、銘柄に合わせたグラスでチビリチビリとやるのが流儀です。量も「25cl」とちょっと少なめです。clはセンチ・リットル。日本の250mlと同量の単位です。

 スペイン・サンティアゴ巡礼の都市、ログローニョです。リオハ・ワインがおいしいバルが並んでました。

 スイス・グリンデルワルトには、日本語観光案内所がありました。モンベルの店もありました。日本人とも出会いました。

「数」ある欧州旅 『24』

 「24」もスペイン・サンティアゴ巡礼のサリアからのカットです。足が痛くて歩けなくなり、1日、休養日としてのんびりとしました。
 夕刻になって散歩に出かけると、「リタイア3人組」の一人、Kさんとばったり。「食事にしますか」とふらふらと歩いてrenfeのサリア駅までやって来ました。
 駅前のホテル・レストランで一緒に食べたハモン(生ハム)が、この旅でのサイコーの味でした。

 欧州のトラムは、ほとんどがフツーは検札はありません。無賃乗車でもわかりません。ところが、私服の男性が、抜き打ちで検札を始める場面に遭遇したこともあります。そのとき、乗車券を持っていないと、有無をいわさず定期1カ月料金分ほどの罰金を徴収されます。
 わたしは、ウィーンでは24時間有効のチケットを買っていました。

 プラハの街角です。ギリシャ料理のギュロスが、終日営業でした。それだけ売れるということなのでしょう。

「数」ある欧州旅 『23』

 ネタが尽きてきました。「23」は、3カットをやっと、しかも目立たない数となりました。

 スペイン・サンティアゴ巡礼では、クレデンシャルという巡礼者のパスポートをもって旅します。スタンプラリー帳ともいえます。泊まったアルベルゲ(巡礼宿)や、訪れた教会、ビールを飲んだバルなどでスタンプを押してもらいます。それが歩いた証ともなります。
 旅も終盤、サリアのサンタ・マリア教会には、出発からほぼ1カ月が過ぎた9月23日日に着きました。足が痛くて歩けなくなり、もはやここまでかと弱気にもなりました。

 初めてウィーンを訪れたのは、55歳になってリフレッシュ休暇が取得できた年でした。
 名物のウイナー・シュニツェル(肉を薄く延ばしたフライ)を食べました。フィグルミューラー・ベーカー通り店です。左のメニューと、右のレシートがうまく一致しませんが、とりあえず「料理は23時まで」ということで。

 スイス・ミューレンで泊まったホテルでは、カクテル・パーティーに招待されました。言葉も不自由で気後れして、窓から暮れゆくアイガーを眺めて過ごしました。出席しておけばよかったです。

「数」ある欧州旅 『22』

 スイスのミューレンは、アイガー、メンヒ、ユングフラウのベルナー・オーバーラント3山を目の前に見ることができる標高1,650mの村です。この村に通じる公道はありません。
 わたしは麓のラウターブルンネンからまずロープウエーで、さらにラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道に乗り換えて行きました。
 「地下鉄の車両はどこから地下に入れるのか」とうのは有名な漫才ネタですが、「22」を付けたこの車両はどうして運ばれたのでしょうか?

 プラハの城には黄金小路があります。王が錬金術師(?)を住まわせた長屋が残っています。「No22」の青い壁の家には、かつて作家のフランツ・カフカが暮らしたことがあるそうです。

 プラハのトラムは、再度の登場です。マラーストラナ広場から少し行ったところにトラムがビルの1階部分をくぐる個所があります。ここだけは単線になってました。

 冷戦時代のベルリンで、東西の接点だったチェックポイント・チャーリーです。「壁の博物館」は、土産物売り場のようでもあり、「壁」の破片も売り物として並んでました。10時まで営業してました。

「数」ある欧州旅 『21』

 ベルギーといえばチョコレート。ブリュッセルの世界で最も美しい広場のひとつといわれているグラン・プラスに面して、GODIVAの店もありました。「1926」ばかりが目立って、肝心の「21」は控えめです。

 ドイツ・ドレスデンで見かけた信号柱に21とありますが、意味はわかりません。
 わたしがレンズを向けたのは歩行者用信号のデザイン「アンペルマン」の方でした。旧東ドイツで使われていましたが、東西統一後もそのかわいさに親しみを寄せる人が多く、生き残っています。ベルリンには、アンペルマン・グッズを集めたショップもありました。

 スペイン・サンティアゴ巡礼では、多くはドミトリーのアルベルゲ(巡礼宿)に泊まりました。でもそれが続くとプライバシーもなくて疲れるので、1人部屋のペンシオンやホテルも利用しました。
 ログローニョのペンシオンは、飲み屋街の路地にありました。バルを3軒、ハシゴしてくつろぎました。

 わたしの2回目の巡礼は、バルセロナからパンプローナまでrenfe(スペイン国鉄)でやってきて、フランス・バイヨンヌ間を往復するバスに乗り継いでスタート地のサン・ジャン・ピエ・デ・ポーに向かいました。
 巡礼4日目に、再びパンプローナの旧市街を歩きました。