「数」ある欧州旅 番外編『end ~3571』

 「Top of Europe」(3571m)で、『「数」ある欧州旅』は最終回といたします。
 スイスの名峰アイガー、ユングフラウ、メンヒが連なるベルナーアルプス三山をのぞむクライネ・シャイデックから約100年前に開通したユングフラウ鉄道で、ヨーロッパ最高地点の鉄道駅、ユングフラウヨッホまで行きました。アレッチ氷河なんかの絶景が望めるはずでした。ところが、無情の雨。登ったという記憶だけが残りました。

 スペイン・サンティアゴ巡礼では、フランス-スペイン国境のピレネーに始まって、いくつもの峠を越えました。
 巡礼も終盤のサン・ロケ峠には、帽子を押さえたペルグリーノ(巡礼者)の像が風雪に耐えて立っていました。

 スイス・エンガディン地方のマローヤです。「アルプスの画家」といわれるセガンティーニのアトリエが残っていました。
 ここからブレガリアの谷を下り、セガンティーニは「天国の入り口」といった村、ソーリオを訪ねました。

 おいしいビールをたくさん飲みました。
 「1516」は、ウィーンでいただきました。ケルントナー通りの近くにあるビアレストラン「1516」のオリジナルビールでした。

 巡礼中のフロミスタで飲んだビールです。特に指定した記憶はありません。「クローネンブルグ 1664」はフランスのストラスブール産でした。

 「1906」も巡礼の途中で飲んだビールです。よく飲んだエストレーリャ・ガリシアのプレミアム・ヴァージョンのようでした。

「数」ある欧州旅 番外編『over 100』

 スイスのアイガーの麓です。ベルナー・オーバーラント鉄道でクライネ・シャイデックから下ってきて、ベンゲンで途中下車しました。駅といってもホームはありません。レールの間には、板がかぶされていました。ラックレールのギザギザもよく見えました。

 スペイン・サンティアゴ巡礼で、あと200キロ。最後の峠、オ・セブレイロを越えたらゴールも見えてくるはずでした。ところが、積もり積もった疲労が限界に達したのか、左足に激痛が走るようになりました。苦しかった記憶も、今では思い出です。

 オランダ・スキポール空港で乗り継ぎのミラノ行きを待ちました。窓の外を眺めていると、ちょっとヘンな光景が繰り広げられました。
 パンクしたのでしょうか。自動車修理工場のジャッキのようなものが登場して、いとも簡単に前脚をもちあげてしまいました。いくら飛行機が軽いとはいえ相手はBoeing737-300です。

 プラハのマラー・ストラナは官庁街です。在チェコ日本国大使館がありました。
 春江一也の小説「プラハの春」の舞台だったところです。

 ドレスデンで見かけたリムジンです。なんと、かのトラバントの改造車でした。

 スイス・サンモリッツで発車を待つGlacier Express(氷河急行)塗装のELです。マッターホルンの麓の村、ツェルマットまで平均時速は30キロほどで走り、8時間もかかりました。

「数」ある欧州旅 番外編『100』

 スペイン・サンティアゴ巡礼で、ゴールのサンティアゴ・デ・コンポステーラまで100キロを示すモホン(道標)です。巡礼では、100キロ以上歩くとコンポステーラ(巡礼証明書)がいただけるため、とりわけ印象深い地点でした。

 2度目の巡礼では、ガリシア州のモホンがすべて交換されていました。ところが、100キロの手前にフェイクのモホンがあることは、きっちりと引き継がれていました。

 こちらがニセモノ。距離表示のプレートが持ち去られ、フェルトペンで100キロと書かれていました。
 改めて見ると、同じような格好をして歩いていたのですね。

 パンプローナ郊外のナバーラ大学の広いキャンパスには、日本語も交えた案内板が立っていました。ここでクレデンシャル(巡礼パスポート)にスタンプを押してもらいました。

「数」ある欧州旅 番外編『less than 100』

 アムステルダムの朝です。シトロエンDSのお尻がフワリと持ち上がり、さっそうと走り去りました。「60年前の未来のクルマ」が、現役のままでした。

 スイス国鉄にはライゼゲペックという便利な荷物託送サービスがありました。乗車券をもっていると駅から駅へ、荷物を直送してくれます。到着は翌々日でした。朝に送ると、その日の夕刻に着くファストラッゲージもありました。

 スペイン・サンティアゴ巡礼の途中、サリアのアルベルゲに張られていた「Shikoku 88 temples」のシールです。同じシールを四国でも見たことがりました。

 スイス-オーストリア国境の町、ザンクト・マルガレーテンから乗ったルツェルン行きのVorAlpen Expressです。あいにくの雨の中を走りました。

 グリンデルワルトからロープウエーでフィルスト展望台に登りました。
 アルプスのトレッキングでは、麓から2000メートル超の高さまでロープウエーで一気に登り、あとはほぼ水平な道を歩く足に優しいスタイルも多かったです。

「数」ある欧州旅 番外編『over50』

 スイス・ルツェルンのカペル橋は、1333年に作られたヨーロッパで一番古い木造橋です。屋根の下には、ルツェルンの歴史を描いたたくさんの絵がかかっていました。

 ウィーンからグラーツまで乗ったスイス国鉄の列車はお隣の国、スロベニアの首都、リュブリャナ行きでした。古いコンパートメントのドアの上に、窓際の2席が「指定席」と知らせるカードがはさまっていました。

 ベートーベンは引っ越し魔だったそうです。ウィーンには、ベートーベンが暮らした家がいくつも残っていました。
 「夏の家」です。1898年の夏、この家の2階の部屋を借りて「田園」を完成させたそうです。

 スペイン・サンティアゴ巡礼では、毎夜のごとくワインを飲みました。おいしかったのがワインの名産地、リオハ州のワインでした。75clは、日本表記なら750mlです。

 巡礼を歩き始めて2日目。ブリゲッタの村を通りました。赤いドアが素敵でした。
 ここは、ヘミングウェイがよくマス釣りに訪れたところでした。定宿にしたホテルも残ってました。

「数」ある欧州旅 番外編『50』

 ベルギー第3の都市、ゲントです。運河の両側に切妻屋根のギルトハウスが並ぶ美しいところでした。遊覧ボートに乗って、水際から見上げました。

 コペンハーゲンの遊園地、チボリの中にあるレストランで昼ご飯を食べました。支払いはデンマーククローネ(DKK)でした。

 スイスのグリンデルワルトでハイキングに出かけました。フィルスト展望台(2167m)までロープウエーで登り、あとは緩やかなルートをたどりました。3大北壁がそびえるアイガーが湖に映えるスポット、バッハ・アルプゼーまで50分でした。あいにくの天候で、アイガーは雲の彼方でした。

 最初のスペイン・サンティアゴ巡礼は、サリアから100キロちょっとを歩きました。メリデの街にある50キロのモホンまでやって来たときは、ほっとしたことを覚えています。700キロ以上を歩いてたどり着いた2度目は、建て替えられてこのモホンはありませんでした。

 2度目の巡礼は、バスでパンプローナからピレネーのスペイン側の町、ロンセスバージェスを通って、フランス側のサンジャン・ピエ・デ・ポーに向かいました。2日後にはここを自分の足で歩くのだと、緊張して見つめていました。

「数」ある欧州旅 番外編『40s』

 欠番もありますが、40台をまとめてー。

 スペイン・サンティアゴ巡礼を歩き切った翌日、バスで大西洋まで行きました。西の地の果て、フィステーラ近くのキンタナスという港のカフェです。Kさんと「魚介盛りあわせ」にむしゃぶりつきました。マテ貝にムール貝、エビにホタテと盛りだくさん。フルボトルの白ワインがついて、2人でなんと€40ポッキリでした。

 ベルギー・アントワープの有名なビスケット屋さん「Philip’s Biscuets」です。みやげにしました。

 巡礼路の楽しみでした。エステージャを出発すると、「ワインの泉」で知られるイラーチェを通っていきます。醸造所のサービスで、蛇口をひねるとワインが出てくるという、夢のような場所です。
 ところがスタートが早すぎてまだ開いておらず、国道わきを直進しました。ログローニョまで43キロ。到着したのは翌日です。

 ブリュッセルのトラムは、ターミナルに近づくと地下に潜りました。
 トラムは運転席が前方だけにしかなく、バックできません。地下には大きなループがあって、一方通行で元きた方向へ進むことができました。

 イタリア―スイス国境の町、ティラーノです。ここからレーテッシュ鉄道のベルニナ線が始まりました。箱根登山鉄道と姉妹鉄道になっていて、カタカナ表記の駅名看板もありました。

 アムステルダム郊外のスキポール空港です。スイスのチューリッヒ行きに乗り換えました。

 巡礼路の中間にある大聖堂の街、レオンです。カウントダウン信号機が「赤だ、あと48秒待て」と表示していました。スペインの人って、大阪人のようにせっかちなんでしょうか。

「数」ある欧州旅 番外編『36~』

 地番表示が4つ、つながりました。

 ドイツ・ハンブルクのレーパーバーンは飾り窓があることで知られる歓楽街です。その一角、グローセフライハイトは、無名時代のビートルズがバンド活動を始めたところです。そのひとつ、「グローセフライハイト36」は、今もクラブとして営業していました。近くには「ビートル・マニア」という4人の足跡を展示する博物館もありました。

 2回のスペイン・サンティアゴ巡礼で計3回も訪れたお気に入りのバルです。サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂の足元にある「Bispo」です。ここで食べたナッハス(マテ貝)や、ピミエント・デ・パドラン(青唐辛子)の味が忘れれません。

 オーストリアの西の端、ボーデン湖に面したブレゲンツの城跡に登る階段です。「ブレゲンツ音楽祭」で、湖上の舞台で演じられるオペラ「トスカ」を楽しみました。

 サンティアゴ巡礼をフランスのサンジャン・ピエ・デ・ポーから歩き始めた人は、必ずお世話になっている巡礼事務所です。ここでクレデンシャル(巡礼証明書)に最初のスタンプを押してもらいました。

「数」ある欧州旅 番外編『32~』

 32日なんてありません。9月になりましたが、もう少し続けます。

 ウィーンの郊外にある中央墓地の32区画には、作曲家の墓が大集合しています。ベートーベン、シューベルト、ブラームス、シュトラウス一家・・・。モーツァルトは別の共同墓地に埋葬されたので、ここには記念碑だけでした。

 スイス・モントルーといえば、有名なジャズ・フェスティバルくらいしか思いつきませんでした。33番には架線があるところを走っており、トロリーバスでした。

 プラハの「黒い聖母の家」です。黒い聖母が壁面にまつられているからその名がありますが、キュビズム様式で建てられた代表的建造物だそうです。

 スペイン・サンティアゴ巡礼の中ほどにあるカリオン・デ・ロス・コンデスのバス停です。35番のレオン行き高速バスが到着しました。バルで休憩していた巡礼姿の大勢が乗り込みました。こんな巡礼もあるのです。
 ブルゴスで知り合ったMさんを見送りました。わたしの足で5日かかったレオンまでの道のりが、バスだとたった2時間ほどだったそうです。

「数」ある欧州旅 『31』

 ちょうど2年前の8月31日です。スペイン・サンティアゴ巡礼の7日目で、やけくそに続いた道を22キロ、ロス・アルコスまで歩きました。
 その日の夕食も巡礼定食。結局、選んでしまったサラダミックスと、セグンドは生ハム、目玉焼き添え。無難な選択でした。デキャンターの赤ワインも飲み干して、サングリアも追加しました。そのお代€13のレシートです。

 その1か月後。9月30日にカミーノを歩き切ってサンティアゴ・デ・コンポステーラに到着しました。翌10月1日は、バスツアーで大西洋に突き出た西の端の岬、フィステーラまで行きました。
 巡礼の途中で何度も顔を合わせた「リタイア3人組」が「0キロ」のモホンで到着を祝いました。
 Sさんは今、再び巡礼の「北の道」を歩いておられます。Kさんは、地元、金沢の古民家でカフェを開いてマイペースでやっておられます。

 マドリードの中心広場、デル・ソルに道路元標があります。最初の巡礼の前に訪れました。すべての道(国道)が、ここから出発していました。

 最後の2枚は、「31」ではありませんが、これでひとまずゴールです。