京都を歩く 羅城門から大極殿 源氏物語ゆかりの地

 きょうも京都を歩いてきまいた。シリーズ化した4回目です。
 羅城門から平安京のメーンストリート朱雀大路(現在の千本通)を上り大極殿、内裏(だいり)を巡りました。源氏物語、そしてNHKの大河ドラマ「光る君へ」の舞台です。
 とはいえ、当時の華やかな都をしのばせるような建造物などはなく、ただただここがその地だったことを記す石碑と案内板だけでした。


 JR京都線の西大路から歩き始めました。
 最初のポイントが西寺跡です。羅城門の東西には東寺と西寺がありました。西寺は早くに消失してしまい、名を残すだけです。

 向こうに東寺の五重塔がのぞきます。こちらは浄土真宗の総本山として、現代にまで伝わっています。

 羅城門跡です。朱雀大路の南の端にそびえていたそうです。

 朱雀大路、現在の千本通を北上しますが、すぐにJR京都線に行く手を阻まれます。大宮通まで迂回しました。

 京都市水族館や鉄道記念館を横目にします。
 懐かしい京都市電が保存されています。

 七条通をちょっと西へいったところに「是より洛中荷馬口付のもの乗へからす(乗るべからず)」と刻まれた碑がありました。京七口のひとつ、丹波口です。

 和菓子屋の前に西鴻臚館跡の碑があります。

 鴻臚館は渤海からの使者をもてなす施設で、朱雀大路をはさんで東西にあったそうです。

 東鴻臚館があった場所は、後に島原遊郭となりました。
 幕末の志士たちも利用した角屋は、角屋もてなしの文化美術館として残っていますが、春まで休館中でした。

 東鴻臚館跡の碑です。

 四条通に面した写真印刷のNISSHA本社の敷地角に朱雀院跡の碑があります。

 源氏物語では、桐壺帝の父、一院(光源氏の祖父)や朱雀院(光源氏の異母兄)の御所として登場するそうです。

 この辺りの千本通は車一台がやっと通れる細い路地のようです。木材商が軒を連ねます。

 三条通を境に千本通は広くなります。明治になって市電を通すために拡幅されました。

 押小路通をすぎたところに朱雀門跡の碑があります。羅城門と対面する大門で、ここから北が大内裏だったようです。

 丸太町通の1本南の通りを東に入った民家の塀に朝堂院昌福堂跡の案内板が張られていました。

 政治の中心、現在の国会議事堂のような建物だったそうです。

 豊楽院(ぶらくいん)は天皇が公的に宴会する所だそうです。

 道を隔てたところに豊楽院の正殿である豊楽殿があります。

 発掘調査で礎石などの遺構が確認されました。

 朝堂院跡の碑は、丸太町通にあります。

 朝堂院の正殿が大極殿でした。天皇が行う国の重要な儀式がここで行われました。

 

 明治28年に建てられた平安神宮の社殿は、ここにあった朝堂院を8分の5の規模で再現しています。もっと壮大な建物だったのです。

 大内裏からさらに内裏に入ります。南に建礼門がありました。浄福寺通の二条城北小学校の前に案内板だけがあります。

 もうひとつ内側にあったのが承明門です。

 内裏は四方を内郭回廊でつながっていました。

 内裏跡の案内板は、下立売通の油屋さんの向かいのスペースにあります。

 狭い路地が続きます。

 淑景舎(桐壺)跡の案内板です。源氏物語では、光源氏の母、桐壺更衣の局として登場します。

 承香殿(じょうきょうでん)跡です。

 並んで弘毅殿がありました。いずれも後宮七殿五舎のひとつです。

 これで源氏物語にまつわる内裏は回りました。
 歩いていると古びた住所表示プレートが張られていました。下から読むと南区東九条南烏丸町です。古いプレートを再塗装して使ったようです。

 千本通に戻りました。向こうにスッポン料理で有名な大市が見えます。一度、食べてみたいものです。

 さらに千本通を北上しました。千中(千本中立売)は、かつてのにぎわいはありません。

 寺之内通で左折して紙屋川を越えました。タモリさんが好きそうな急な段差があります。
 豊臣秀吉が都を囲うように築いた御土居の上を歩いているのです。

 花山天皇の紙屋川上陵です。
 「光る君へ」の2回目では、足指で扇をもて遊びながら女性の話をしていたユニークなキャラクターをもつ天皇です。

 昨年は京都十六社朱印めぐりで参ったわら天神を横目にしてゴールとしまいた。 
 13.6キロとよく歩きました。