琵琶湖疏水を巡る「そすいさんぽ」の後編は、四条大橋から南下。伏見を抜けて宇治川に放流される三栖閘門(みすこうもん)までの鴨川運河を歩きました。びわ湖から25.1kmポイントが京の都を潤した人工河川のゴールでした。
疏水に沿った多くの部分が遊歩道として整備されていました。
京阪電鉄とはルートが重なる部分が多く、何回か踏切を渡り、高架下を潜りました。
疏水にかかるいくつかの小さな橋の橋脚に、六角形の星がデザインされていました。「六芒星」と呼ばれ、京都市電力局(当時)のマークでした。疏水は電力源でもあった名残のようです。
京阪・墨染と丹波橋間の船溜です。
こから西約290m、高低差15mの地点まで伏見インクラインが通じていました。明治28(1895)年に完成しました。
この高低差を利用して墨染発電所もつくられました。
【2024/05/02 10:03】
阪急・京都河原町からスタート。四条大橋を渡りました。
南座のちょっと南に「琵琶湖から14km」のポストがありました。
団栗橋を過ぎた辺りで、疏水がかわいい流れで姿を現しました。
古い欄干が、お地蔵さんの横に残されていました。
ツツジがきれいです。
京都五花街のひとつ、宮川町の歌舞練場が建設中です。
五条通の南にある15kmポスト辺りは、暗渠となっています。
七条通を横切りました。
塩小路通を過ぎたところで、疏水は滔々と水をたたえて姿を現しました。
JR京都線と新幹線の高架下を潜りました。向こうに京都タワーが見えていました。
伏見街道に出ました。このルートは、大阪からの通じる京街道として歩いたことがあります。
東福寺近くの疎水端の路地です。スーツケースを押す外国人観光客とすれ違いました。辺りには民泊がいくつもありました。
良い天気でした。木陰はほっとします。
松風橋は、後ろのビルの歯科材料メーカー、松風の玄関です。鴨川運河は沿線に工場が立ち並んでいました。
松風は稲盛和夫氏が最初に働き、仲間と独立して京セラを創業しました。
きれいにレンガ舗装されています。
横綱橋です。
振り返ると、橋脚に六芒星が刻まれていました。
稲荷橋の上には、市電の稲荷駅がありました。
レールの一部が残されていました。
六芒星は、次々と現れました。
師団橋を過ぎました。
この橋の東に旧陸軍第十六師団司令部庁舎がありました。現在は、聖母女学院の本館として残っています。
よく見ると、ここは五角の星でした。陸軍の名残でした。
桜のトンネルです。花見は素晴らしかったことでしょう。
出雲橋で疏水の流れは止まります。
写真は古いセピア調になってます。カメラの設定が狂っていました。疏水開削当時の資料画像の趣きです。
西に下ると、伏見撞木町廓の碑がありました。
忠臣蔵の大石内蔵助も遊んだ遊郭があったところです。
この辺りにあった伏見インクラインは市バスの停留所名として残っていました。
国道24号側に回り、船溜と疎水の上流を確認しました。
車では何度も走ったことがありますが、この坂がインクラインの跡地とは知りませんでした。
現在の疏水は暗渠となり、下の船溜に流れ込んでいます。
向こうを近鉄特急が走りすぎました。
ちょっと先が近鉄伏見です。
「近鉄京都線『伏見駅』の謎」という駅の位置に関する記事が京都新聞に掲載されていることをネットで知りました。読みたくてコンビニで買いましたが、日付が違ったよです。
22kmポストまでやってきました。
この先のいものや橋で、第一疏水は終わります。その先は、伏見城の外堀の濠川(ごうかわ)に流れ込みます。
さらに下流に下ると、伏見の町を東西に流れる宇治川派流と合流しました。
ゴールとなる三栖閘門の塔の先が見えてきました。
観光客を乗せた伏見十石船が走りすぎました。岸辺に立つわたしに向かって、船頭が「波が行くよ」と注意してくれました。
濠川と宇治川をつなぐ三栖閘門は昭和4(1929)年に完成しました。当時は年間2万隻もの船舶が往来し、大阪ー京都間の物資を運んだそうです。
閘門の上から宇治川の下流を眺めました。
京阪中書島まで戻ってきました。
堀の町を横切り、龍馬通を抜けました。観光客でいっぱいでした。
【14:05】
ここまで飲まず食わずで歩いてきました。
大手筋商店街の居酒屋の前でゴールとして、スマホアプリのYAMAPを停止させました。