京城勝覧を巡る 第十一日 雲母坂から比叡山に登る

 貝原益軒が記す京都ガイドブック「京城勝覧」の第十一日は、「艮(うしとら=北東)」の方角で、「比叡山に行道をしるす」です。『きらゝ坂(雲母坂)』から『比叡山』に登ります。
 雲母坂は久しぶりです。初めて登ったのは、小学5年でした。もう60年も前のことです。夏休みの自由研究の「比叡山に登る地図を作る」がテーマだったはずです。友だち2人と一緒でした。
 ケーブル比叡駅には、大きな「HIEIZA」ができていました。あいにく曇っていたのでカラーがイマイチですが、とりあえず「還暦!登山達成」です。
 

 大比叡(おおびえ、848.1m)上まで登りました。冷たい風が吹きつけ、冬到来を思わせました。

 阪急を烏丸で降りて、志津屋四条烏丸店に寄ってきました。志津屋といえば「カルネ」でしょう。やはりうまいです。


 【2021/10/20 10:08】
 四条烏丸から京都市バスで修学院道までやって来ました。向こうに比叡山が見えます。見慣れた光景です。

 音羽川に沿って進みます。
 『右の方の谷に音羽の瀧見ゆ』とありますが、滝はどこかわかりません。

 雲母橋を渡ります。

 雲母坂は、雲母が含まれる花崗岩由来の砂が多いためといもいわれます。
 浄土真宗の宗祖親鸞が、9歳の時に出家して比叡山延暦寺へ修学のために登り、29歳の頃に叡山を下り六角堂へと百日参籠を行うために下山した道とされます。現在も延暦寺の千日回峰行が行われる行者道でもあります。

 ちょと荒れた個所もありますが、道はおおむねきれいに整備されています。

 岩を削って樋状になっている急坂です。

 左側はフェンスが続きます。修学院離宮の敷地です。

 ルートからちょっと右にそれたところに雲母坂城の城跡がありました。確かに主郭があったような雰囲気です。
 築城年代は不明ですが、建武の新政後に、後醍醐天皇と足利尊氏が戦ったころにその名前は出てくるそうです。

 わたしが小学生だったころには、城跡は存在したのでしょうが、看板はありませんでした。

 緩やかになった尾根道を気持ちよく進みます。

 「水飲対陣之碑」です。足利尊氏の弟である足利直義と千種忠顕との合戦の舞台となりました。この戦いで忠顕は討死しています。
 京都一周トレイルは、ここから南に進み、北白川に下ります。

 振り返れば、京都府立植物園が目の下です。その手前にわたしが育った下鴨北園町の家がありました。

 女子大学生2人らと、つかず離れずで歩きました。

 「浄刹結界跡碑」です。

 傍らには「女人牛馬結界碑」が転がっていました。

 【11:59】
 叡山ケーブルのケーブル比叡山駅まで登ってきました。予定通りのペースでした。

 「HIEIZA」の文字で、セルフタイマーを使って自撮りした後、大比叡に向けて進みました。
 人工スキー場があったあたりは、ゲレンデだったところが草原になってます。施設は残っていません。

 ガーデンミュージアムの入り口です。秋の花でも観賞しようかと思いましたが、入場料が高くて敬遠しました。

 【12:41】
 寒風が吹き抜けていた大比叡の頂上です。
 『延暦寺』の方には下らず、引き返しました。

 山頂駐車場からは、大原の里が見下ろせました。向こうは京都北山の峰々です。中央の尖っているのが雲取山でしょうか。

 京都市街から鴨川が淀川となって流れ下る様子がよくわかります。大阪市街も見渡せ、ひときわ高いのはあべのハルカスでしょう。

 比良山系は雲を被っています。

 ケーブル比叡山駅まで戻ってきました。ここをゴールとして、ケーブルで下ることにしました。

 昼飯にしました。カルネのパンはドイツのカイザーゼンメルが元になっています。シャキシャキタマネギとハムがはさまっています。

 湯を沸かしました。

 温かいコーンクリームスープがうれしかったです。

 陽が射してきて、HIEIZANの文字が輝きました。

 叡山ケーブルで下山しました。

 【14:15】
 ケーブル八瀬駅まで降りてきました。
 紅葉のシーズンを迎えると、瑠璃光院などの紅葉の名所はごった返します。その前の静寂です。
 待たずにやってきた京都バスに国際会議場前まで乗り、地下鉄、阪急と乗り継いで帰宅しました。