歩いて伊勢参りのその7です。山の辺の道を南下してきた大和路は、桜井から伊勢本街道に沿って東進します。JR三輪から歩き始めて、長谷寺を通り榛原まで13.6キロほどでした。
道中で「いせ」の文字と何度も出会いました。
長谷寺の紅葉を期待していました。しかし、五重塔はまだ緑の中に頭を出していました。
長谷寺の前にある茶屋で昼飯を食べて、拝観せずにUターンしました。
「いせ」が近づいてきたようです。
【2021/11/04 10:08】
JR三輪で下車します。京都からのルートは、JRと近鉄の組み合わせで5通りもあります。料金は少しづつ違いますが、到着時間はほぼ同じです。
わたしは近鉄天理でJR万葉まほろば線に乗り換えてやってきました。
JR三輪から山の辺の道を目指しました。前回、道を誤って訪れることができなかった平等寺です。かわいい塔が建っています。
山の辺の道は南に延びています。こんな午前ですが、反対向きに歩いてくる何組ものハイカーとすれ違いました。
金屋の石仏です。この中に2体の石仏が納められています。
粘板岩に浮き彫りにされています。右が釈迦、左が弥勒とされ、平安時代のものといわれています。
いよいよ伊勢街道が始まります。
大和から伊勢神宮に至る道は、伊賀の青越を経由する「初瀬街道・上街道」、奥津を通る「伊勢本街道・中街道」、南大和から高見越する「伊勢南街道・下街道」の3ルートがあります。
海柘榴市(つばいち)があったところです。古代からあった交易市で、大陸の使節も大和川を遡ってここまでやって来たそうです。
「いせ」は左です。「はせ(長谷寺)」と並んでいます。
「仏教伝来の地」の碑が建っています。
日本書紀によると、欽明天皇13(552)年、百済(くだら)の聖明王の使者が、この地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとされています。
目の前を大和川(初瀬川)が流れています。
大神神社の摂社や末社があちこちにあります。
玉列神社も立派な社殿をもっています。
農村歌舞伎でも行われたのでしょうか。
雄略天皇の泊瀬朝倉宮の伝承地です。
青い空が広がります。巻向山でしょうか。
古い街道の雰囲気が残っています。
出雲の集落の十二柱神社です。相撲発祥の地として知られています。
鳥居の脇の狛犬を四人の力士が支えています。
国道に沿って大きな長谷寺の文字です。これを見て、壷坂寺、岡寺から自転車で走ってきたことを思いだしました。
伊勢辻の道標です。ここから右に入ると下化粧坂へと進みます。
【12:08】
長谷寺までやって来ました。参拝するかどうか迷いましたが、まだ紅葉には早いようでした。
仁王門を入ると、すぐに廊下状の登廊が延びています。
自転車でやって来たのは、西国札所を巡礼していた十数年も前のことでした。
西国八番 「長谷寺」ではもうくたくた
門前の茶店「酢屋長」で昼飯にしました。「門前にゅうめん定食」(1300円)です。
奈良県の郷土料理です。三和素麺などこの辺りは手延べそうめんの発祥地といわれます。晩秋のころから食べる温かく煮たそうめんが「にゅうめん」です。
シイタケ、蒲鉾、錦糸卵などがきれいに載っています。出汁はごく薄味です。
マツタケご飯もいただきました。このシーズンで初めて、そしてお終いでしょう。それにしってはちょっと香りが薄かったです。
紅葉の観光客の姿はなく、店もガラーンとしていました。
酢屋長
07444-7-7121
桜井市初瀬745-1 長谷寺前
伊勢本街道を進みます。
輿喜天満宮の鳥居の前から上化粧坂は始まります。
初瀬川の上から長谷寺を振り返りました。
ここにも道標です。
一気に急坂となりました。
化粧坂とかいて「けはいざか」です。
登りきると向こうは竹林です。
庚申辻にも道標が建っています。
右の道から下ってきました。左の道は下化粧坂からやってきます。
これは道標、それとも墓でしょうか。
こちらは「いせ」と読めます。
向こうを近鉄特急が走り去りました。
西峠に向けて、長いたいくつな上り坂が始まりました。
汗をかきかき15分ほども歩いて、やっと西峠です。
榛原の町に入ると、商店街も伊勢本街道です。
「あぶらや」という立派な旅籠が残っています。
旅籠の前にも道標です。
ここで街道は伊勢本街道と伊勢上街道に別れます。本街道は山道を抜けて伊勢奥津を目指し、上街道はまっすぐに名張、青山を通って松坂に向かいます。
わたしは本街道を進みます。
榛原の駅前通りを歩いていると、芝居小屋がありました。なんとか一座が公演中です。
【14:00】
近鉄榛原でゴールとしました。ホームに降りると間髪を入れずに大阪上本町行きの急行がやって来ました。わたしは大和八木でみやげに柿の葉寿司を買って、京都行き急行に乗り換えて帰宅しました。