鉄の十字架と「五大力」

イラゴ峠(1505m)に着きました。鉄の十字架が立ってます。古来、巡礼者は、出身地から携えてきた石を供えて祈ります。

到着したときは、月明かりの中でした。

十字架の下には、多くの願いがこめられた石が置かれています。

わたしも準備していました。

住吉大社のパワースポットでいただいた「五大力」です。御守りとして、ザックにぶら下げていました。

母や妻、家族の健康、孫の生育、娘の安産なんかを祈願して、石を置きました。

御守りがなくなるのは心もとないので、どなたかが携えてきた小石を3個いただき、御守り袋に詰めました。住吉大社にお返しに行きましょう。

またひとつ、峠を越えました。

あと220キロほどです。

my camino=27日目 ザックの重さは、体重の10分の1 

 昼過ぎにアルベルゲに到着すると、最初にベッドの上にシュラフを広げました。早い時間だとたいていは「お好きなところに」。わたしは、片面が壁になっている隅の下段を選びました。次にシャワーで汗を流し、洗濯場に直行して汗にまみれたTシャツや下着を手洗いしました。ロープにつるしておくと、スペインの午後の日差しを浴びて、夕刻には乾いてしまいました。
 Tシャツや下着類は、基本的に3組しかもっておらず、初日から最終日まで、これのローテーションでした。幸い雨に振られなかったので、2交代でも回りました。ファッションとは無縁の世界でした。毎日、同じ格好をしていても、かえって目印になっていいくらいのものでした。
 それほどまでして荷物を軽くしました。すべてをザックに入れて背負って歩くのですから。
 ザックの重さは、体重の10分の1までが理想といわれています。となると、わたしの場合は6.5キロになります。そこまで軽くするのは至難の業でした。学生時代に山に登っていたころは、キスリングザックと呼ばれた帆布の重たいザックに20キロほどの荷物を背負い、1週間を超える縦走登山をしたこともありました。でも、それは過去の話でした。
 ケチケチ大作戦でした。まずザック。わたしは前回のカミーノでも使ったOSPRAYの38リットルでした。容量が大きいのを選ぶと、なんでも詰め込んでしまいます。ザック自体の重量も同容量のものの中で一番軽い部類でした。シュラフ(寝袋)は、化繊よりも軽いISUKAのダウン製で500グラムほどです。2万円以上しましたが、ここでの軽さは、全行程に影響します。歩くときには必ず背負っているのですから。
 雨着は、ゴアテックス(半透過性繊維)製の上下をもっていました。丈夫ですが、重さが気になりました。これもCOLUMBIAの軽いものに買い換えました。
 机の上に、調理用の計量器をもってきて、すべて装備の重さをはかりました。これは、本当にいるのかどうかと、厳しい目でチェックしていきました。いるか、いらないかと迷ったときは、これはいらない。これは、もっと軽いのが手に入るはずと。
 スペインに出発する朝。大阪・水無瀬の自宅を出発するときは、巡礼中にはくミドルカットのシューズやウォーキング・ポールもザックに詰め込んで8キロほどでした。減量作戦はほぼ成功でした。おかげで、カミーノを通じてザックの重さに苦しんだことはありませんでした。
 重さとは関係ありませんが、I’m Japanese! と、ザックに日の丸を縫いつけていました。

my camino=26日目 鉄の十字架と五大力 

 イラゴ峠(標高1505メートル)には「鉄の十字架」が立ってました。といっても全体が鉄でできているわけではなく、8メートルほどの木の柱の先に設置されていました。
 カミーノの道中で、古来から聖なる地としてあがめられてきました。ペルグリーノは出身地で拾って願いを込めた石を持参して、この十字架の下に置いていく習わしが受け継がれています。
 わたしも準備していました。その年の5月に、娘の安産祈願で大阪・住吉の住吉大社に参りました。太鼓橋で知られる神社です。お参りを済ませて、「御所御前」といわれる「御祭神の住吉大神が降臨した地」を歩きました。そこにあったのが「五大力石守」でした。住吉大社のパワースポットでした。狭い石柱の間から腕を突き出して、玉砂利の中から「五」「大」「力」と書かれた小石を拾いました。その時点で、鉄の十字架まで持っていきたい、いや持っていこうと考えていたのです。
 それをお守り袋に詰めて、ザックに忍ばせてきました。3つの文字が書かれた石を取り出して、十字架の下に置きました。妻や母、家族の健康、孫の生育、そして娘の安産なんかを祈願しました。
 玉石混交というのもおかしいですが、いろんな宗教、習わしがごったまぜになっている気もします。でもそのときのわたしは、ここまでやってこれたという満足感でいっぱいでした。
 帰国後の12月。今度は鉄の十字架でいただいてきた3つの小石に、五大力と書き込んで住吉大社に返しに行きました。3つの石の出身国は違ったかもしれません。願いが叶ったときには「倍返し」するのがしきたりでしたが、それはできませんでした。
 わたしの宗教観は、せいぜい縁起かつぎくらいのことです。正月には京都の実家近くにある上賀茂、下鴨神社に詣で、彼岸には亡父が眠る宇治・興聖寺に参ります。J・S・バッハのマタイ受難曲は、一番好きな音楽です。そして、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂では、巡礼者のミサに出席しました。聖体拝領を受けることはできませんでしたが、敬虔な気持ちになりました。ボタフメイロ(大香合)のたなびく煙を浴びて、身が清められました。

Paso a paso Dos 26日目=9/19 鉄の十字架を越える

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イラゴ峠の鉄の十字架に祈りを込めて大阪・住吉大社でいただいてきた「五大力」の石を置いた。
ポンフェラーダまで28kmほどのステージだった。

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ポンフェラーダの広場のカフェ。海鮮サラダでいっぱい。最高のひと時。

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12世紀に建造されたポンフェラーダのテンプル騎士団の城。シエスタのため、内部には入れなかった。

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Monte Irago 1泊2食17€

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イラゴ峠の手前にあるフォンセバドンは、アルベルゲが数軒とホスタルが1軒あるだけの村です。
「Monte Irago」というアルベルゲに泊まりました。宿泊費は8€と、ちょっと高めです。夕食も予約しました。他に食べに行くところはありません。9€でした。

パンにベーコンやサラミを載せていただきます。

ワインは飲み放題です。

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メーンはこちら。ズッキーニ、ピーマン、タマネギと野菜中心です。ご飯がうれしいです。

前に座ったマドリードの大学生は、野菜が苦手らしく、ほとんど残してました。

お代わり自由です。
なんという料理なのかは不明です。

デザートはご愛嬌のアイスクリームです。

コミュニティ・ディナーといって、みんなでいっしょに食べます。これがなかなかたいへんです。みなの会話についていけません。

朝食もこみです。
ヨーグルトにシリアル、バナナを入れていただきました。こんな朝食は、初めてです。

コーヒーにはたっぷりとミルクと砂糖を入れます。

登ってきたアストルガの方面が望めます。

ボトル飲みしました

午後の日陰で、のんびりとしてます。

ガリシア・ビールをビンから飲みます。やってみたかったのです。こちらではフツーの飲み方です。最後の一口まで、アワが残っていて、おいしかったです。

今日も、ここのアルベルゲに一番乗りでした。それから5時間ほどたちましたが、今ごろ坂を登ってくる巡礼者が絶えません。小さなアルベルゲは、とっくに満室です。いや満ベッドです。これから次の村まで歩くのでしょうか。ご苦労さま。

「亀さん」と「兎さん」

この人と抜きつ抜かれつとなりました。

雨の心配はない快晴なのにザックカバーをしてます。

気になって聞いてみました。側面にも書いてあります。

「トーチュカ!」。意味を聞いたら、おもむろに胸に下げていた飾りを見せてくれました。カメでした。

それほど遅くはありません。

峠道を登るときは、前をスタスタ歩いてました。

そういえばアストルガを出るときに抜かして行ったのも彼でした。中秋の名月の名残の月がきれいでした。
アストルガからフォンセバドンまで25キロほどが、今日の行程でした。

Paso a paso Dos 25日目=9/18 廃村だったフォンセンバドン

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 イラゴ峠の麓の村、フォンセンバドンまで26kmほどのステージ。この日も、きれいな月に向って歩き始めた。

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 山道に入ると、これまでとはちょっと違った景色が。松林だった。

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 フォンセンバドンのアルベルゲ(右)から、向こうに広がるアストルガ方面を眺めた。

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曲線の世界 ガウディの司教館

バルセロナのサグラダ・ファミリアで知られるアントニオ・ガウディは、巡礼道にも作品を残しています。

アストルガの司教館です。その曲線の世界に迷い込みました。

司教館として設計、建築が始まりましたが、途中で意見対立からガウディが手を引いた建物です。

司教の部屋でしょうか。使われたことはありません。

こちらは食堂でしょうか。

アストルガまで、きょうも30キロほど歩いてきました。

これから、オ・セブレイロという峠に向けて、後半戦の山場が始まります。

my camino=25日目 蘇った廃村・フォンセバドン 

 鉄の十字架が立つイラゴ峠の麓の村がフォンセバドンでした。標高1400メートルを超えた南向きの斜面にありました。
 12世紀に、キリスト教の隠修士が教会と簡素な病院を建てたのが、この村の始まりだそうです。聖地・エルサレムがイスラム教徒によって占拠されるなどしたため、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼がヨーロッパ中の信者の間でブームとなったのです。それも16世紀になってすたれ、辺鄙な地にあったフォンセバドンはいつしか人の住まない廃村になってしまいました。
 サンティアゴへの巡礼が再び脚光を浴びるようになったのは、わずか4半世紀ほど前のことです。それが今では年間30万人近いペルグリーノが歩くほどになりました。これはサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼者事務所がコンポステーラ(巡礼証明書)を発行した数で、観光に訪れた人を含めればもっともっと多いはずです。
 フォンセバドンには、ここ数年で5軒のアルベルゲと1軒のレストラン兼ペンシオンがオープンしました。民家は1軒もないので、すべてがペルグリーノに1夜のベッドや食事を提供することで成り立っているのです。
 カミーノに沿った大都市には大聖堂がそそり立ち、町村には立派な教会が立ってました。どれも数百年の由緒をもっているような、素晴らしいものがほとんどでした。「太陽の沈まぬ国」といわれたスペインの16世紀ごろの富の蓄積とその栄華には、感心するばかりでした。
 現代のスペインでも、帰り道に立ち寄ったバルセロナのサグラダファミリアのようにすごい教会が建造されています。ところが、カミーノに沿った町村でも人影はまばらで、空き家が目立つところも多くありました。地方の過疎化は深刻なようでした。
 ペルグリーノが落としていくカネが、カミーノの町村の振興にすこしは貢献しているのでしょう。わたしが、あちこちのバルで飲んだビール代が、わたしのノドだけでなく、そのバルを、ひいては巡礼路の経済を潤しているのだと考えると、ちょっとうれしくなりました。
 サンティアゴ巡礼路は、日本の熊野古道と姉妹巡礼路になってます。「デュアル・ピルグリム」といって、両方の道を歩いた人には、共通の巡礼証明書が発行されます。同じように「巡礼で地域お起こし」という願いが込められているのでしょう。応援いたします。