京都・北山にある山小屋、「北山荘」を訪ねました。
1927(昭和2)年に京一中(京都府立洛北高校の前身)の西堀栄三郎(第1次南極観測隊越冬隊長)や今西錦司らが建てた山小屋です。西堀作詞の「雪山讃歌」で「煙たい小屋でも黄金も御殿」と歌われたその山小屋です。
現在の山小屋は1942(昭和17)年に再建されたものです。それでも78年です。わたしも洛北高校生だったころに泊まったことがある思い出の山小屋です。
京一中・洛北・鴨沂高校山岳部のOB会「北山の会」によって、今もきれいに管理されています。
京一中洛北高校同窓会誌「あかね」が郵送されてきました。その中に北山荘が書かれています。急に思い立って、京都・北山まで車を走らせました。
北山荘で食べた昼飯は、途中のコンビニで買ってきた「たっぷり海鮮丼」でした。カニにイクラにマグロすき身とたっぷりです。
道端に、なんとクリンソウが1輪、花をつけていました。5、6月に咲く花です。大遅刻です。
【2020/09/17 09:46】
京都市内を抜け、上賀茂から雲ケ畑への道を進み、出合橋からさらに分け入り松尾谷との分岐までやって来ました。
ここがスタートで、反時計回りに直谷-北山荘-柳谷峠-魚谷山-魚谷峠と回ってゴールとする計画でした。
林道を進むと、初っ端からこの惨状でした。いつの台風の被害なのか、道は完全にふさがれています。
太い杉が何本も倒れています。
車が通らない林道上にクリンソウの株がいくつも根を張っていました。
そのうちの1輪です。まさか、今ごろ咲いているとは予想外でした。
茎が育たないまま葉の中で花をつけているらしいのもありました。
橋がかかっています。貴船山から下ってきた道との分岐でしょうか。
【10:36】
北山荘と並ぶもう一つの古い山小屋「麗杉荘(れいざんそう)」が残っていました。こちらは残念ながら放置されているだけのようでした。
【10:44】
柳谷峠への分岐までやってきました。
ここまで林道が続いてましたが、北山杉を運び出すという林道の役目はなくなり、土砂をかぶり石がゴロゴロと転がる山道と化してました。
わたしが中学、高校生時代に歩いたときは、まだ木馬(きんま)道があちこちに残っていました。梯子のように組んだ木材をつなげてレールにして、その上を北山杉を積んだソリで運び出していたのです。
腐りかけた丸太橋がかかってます。怖くてとても渡れません。下の川を渡りました。
さて、ここからがたいへんでした。
谷は度重なる豪雨被害ですっかり荒れ果て、山道はほとんど残っていません。倒木が行く手を遮ります。右に渡り、左に逃げてと、撤退も考えるほどの難渋の道(?)でした。
このカットは、まだ余裕があったときです。その後は、とてもカメラどころではありませんでした。
【11:09】
やっと滝谷峠への分岐までやってきました。ここまでで25分もかかっています。コースタイムからすると、北山荘についていてもよい時間です。
さらに悪戦苦闘して最初の北山荘があったち地点までたどり着きまし。
今西博士のレリーフが見えました。
生態学者、文化人類学者であり登山家でもありました。
【11:31】
やっと北山荘が見えてきました。辺り一帯は雑草が生い茂っています。訪れる人は少ないようです。
鍵はかかっていません。自由に利用することができるようです。
この囲炉裏を囲んで寝たことがあります。
「雪山讃歌」の歌詞が掲げられています。
ハイキング気分を予想してで買ってきた弁当です。山小屋の懐かしさに浸りながらいただきました。
【12:06】
さて出発です。
けばけばしい色をした実がなってました。何の花実でしょうか。
柳谷峠から魚谷山への道を進みます。
向こうの方で、何かの動物が動きました。
【12:21】
柳谷峠への谷を詰めました。道は消えて、雑草の中を進みます。
ゴソゴソと音がして、茶色い大型犬くらいの動物が向こうに逃げ去りました。後ろ姿しか見てませんが、肩の盛り上がりからすると子熊だったのでしょうか。確証はありません。
魚谷峠からの林道も倒木の巣という情報もあることから、ここでUターンすることにしました。ちょっと怖気づきました。ヒトさまとは会わないのでマスクは不要ですが、クマとの遭遇なんてイヤです。
帰りも倒木の川を下りました。
倒木をまたぎ、くぐり・・・。疲れました。
【13:05】
直谷の林道につながる丸太橋まで戻ってきました。慎重に川を渡り、やれやれでした。
青空が広がったり、時雨れてみたり、安定しない天気でした。
【13:49】
無事、松尾谷との出合まで戻ってきました。予想外の難路でした。
わたしの初めて登った山が荒れ果てているのを目にして、悲しくもなりました。