逆・京都一周トレイルの最終ステージ、蹴上~将軍塚~清水山~泉涌寺~伏見稲荷を歩きました。英会話クラスのお仲間らと、苔寺から時計回りに歩いてきて9回目となりました。
東山を「縦走」して、ピークの清水山です。といってもささやかに242.4mではあります。
清水の舞台に立つ観光客は多いですが、その峰の上にあるこちらまで登る方はそれほど多くはありません。
3等三角点の上には、ケルンが積まれてました。わたしも小石を積み上げました。これ以上は無理でしょう。
逆・京都一周トレイルの最終ステージ、蹴上~将軍塚~清水山~泉涌寺~伏見稲荷を歩きました。英会話クラスのお仲間らと、苔寺から時計回りに歩いてきて9回目となりました。
東山を「縦走」して、ピークの清水山です。といってもささやかに242.4mではあります。
清水の舞台に立つ観光客は多いですが、その峰の上にあるこちらまで登る方はそれほど多くはありません。
3等三角点の上には、ケルンが積まれてました。わたしも小石を積み上げました。これ以上は無理でしょう。
淡路島の最高峰、諭鶴羽山に登りました。「神話と大自然に彩られた霊峰」です。
頂上近くの諭鶴羽神社で食べた「助六寿司」です。途中の神戸淡路鳴門自動車道の室津SAにあったコンビニ、ファミリーマートで買ってきました。「長ねぎのみそ汁」は、あたりまえですがねぎたっぷりです。
いなり寿司は大好物です。
バーナーは快調に熱湯を湧き立たせてくれました。
コーヒーもいい味です。こんな陽だまりで飲めば、最高です。
学生時代からの「どたぐつ」の仲間、Sくんと、その友人のOさんとの3人で登りました。
「関西百名山」を月イチで登って行こうということになり、その第1回でした。
「西院の永田助産院」と、母がわたしの出生地を教えてくれました。
その西院近くに住むMOさんが、Facebookに建て替え工事中の阪急・西院駅や東北角の高山寺の門前にある「淳和院跡」の石碑について書いておられました。そのうえ、同じ助産院生まれだったという出生からの縁が明らかになりました。永田助産院はもう存在しませんが、どこにあったのかが急に気になってきました。
阪急・西院駅で下車しました。ものすごい突風が吹きこんできました。
この駅は、ホームに強い風が吹き抜けることで有名です。通過する電車が管内のピストン弁のように作用して、風を吸い込むのです。
工事中とはいえ、パイプがむき出しの狭い空間です。
交番があったので、飛び込みました。若い警察官は、「うーん、わかりませんね。古い町名の地番がわかっているんだったら、法務局に行かれたらいいですよ」。親切でしたが、きょうは日曜日でした。
「京都市右京区西院淳和院町15番地」と、わたしの戸籍には出生地が書かれています。当時、住んでいた家とは離れていますが、知り合いに教えられた助産院だったようです。
西院淳和院町は、昭和29年に東西の淳和院町に分割されており、現在地はどこだかわかりません。
とりあえずは、「西院から上がったところ。西大路に面していたはず」という、母の漠然とした記憶を頼りに、あたりを歩きました。
聞き込み調査は、新聞記者だった若いころにはよくしたものです。ところが聞く相手がいません。コンビニやケーキ店はあっても、そこの若い店員が古い時代のことを知っているはずがありません。
立派な「レディース・クリニック」がありました。これは助産院に通じますが、院長の名前は「永田」ではありませんでした。
角を曲がってみると、次の2階建ての家になんと「永田」の表札があがってました。
ここだと、無礼を承知で玄関のブザーを押してみました。でも不在だったようで、応答はありませんでした。
なおも辺りをうろつきました。古そうな民家に暖簾がかかっていたのでのぞいてみると、ご主人が「うちはここに移ってきて10年ほどです。わかりませんね」。
別の民家から出てきた男性に声をかけると、家の中の年配の男性呼んでくれました。「そこになんとかクリニックがあるでしょ。そこが助産院あったところです。わたしの兄も、そこで生まれました」
これで裏(づけ)がとれました。「レディース・クリニック」が永田助産院の跡地で、隣の民家はその本宅(?)だったようです。
20メートルほど北に、「西安食坊」と看板がかかったままの売り店舗がありました。ここでかつて「自家製チャーシュー入りチャーハン」を食べたことがありました。すぐ近くまで来ていたのです。
西院のこの辺りは、平安時代には淳和院と呼ばれたところです。
平安遷都をした桓武天皇の第7子として生まれた淳和天皇は退位後、御所の西にある西院を淳和院と改めて、ここで暮らしたということです。
西院春日神社の境内には、淳和院の礎石が残っていました。
西院は、「さい」とも読まれます。西院春日神社の前の通りは、佐井通り(春日通り)といいます。
四条との角にある大型家電店が入居するビルの壁面に、淳和院の発掘記録を記したプレートがありました。
淳和天皇は火葬され、その遺骨は大原野の西山(京都市西京区大原野南春日町の小塩山)山頂付近で散骨されたと言われています。そこには現在も淳和天皇大原野西嶺上陵(じゅんなてんのう おおはらののにしのみねのえのみささぎ)があります。
春に咲くカタクリの花を見に行く小塩山の保護地のひとつ、「御陵の谷」の御陵は淳和天皇陵のことです。
嵐電の西院(さい)駅です。
阪急の西院(さいいん)と接続するようになった新しい入り口から地下に降りて帰宅しました。
京都逆一周トレイルの銀閣寺-大文字山-南禅寺-蹴上を歩きました。英会話クラスのお仲間たちと比叡山を下ったのは6月のこと。秋になってからは、台風や雨で延び延びになってました。
この秋一番の陽よりとなりました。風もなく暖かな1日でした。大文字の火床から眺める京都市内も、南禅寺の紅葉の赤も最高でした。
続きを読む 大文字山~南禅寺 紅葉を愛でつつ歩く
「ふるさと兵庫百山」をひとつづつ制覇しいる学生時代以来の友人に誘われて岩屋山(丹波市青垣町、719m)に登りました。麓の高源寺は、「関西花の寺25ヵ所」の4番です。8年ほど前に20寺ほどは巡ってますが、高源寺には参ってませんでした。紅葉には遅すぎたようですが、良い機会と軽い気持ちで同行しました。
ところがどうして、久しぶりにハードな登山となりました。そんな苦労をねぎらってくれるように、きれいな虹がかかりました。
苦労してたどり着いた岩屋山の山頂です。見晴らしもないNTTドコモの鉄塔の下に、3等三角点がたたずんでいました。
ポンポン山と釈迦岳。この2座は、裏山のように何度も登っています。
ポンポン山(正式には加茂勢山、678.9m)には2等三角点があります。頂上で足踏みすると「ポンポン」と音がするという言い伝えもあって、北摂の人気の山です。
釈迦岳(630.8m)は、わが町・島本町の最高峰です。3等三角点もあります。しかし、見晴らしがよくないこともあって、「頂上」という響きには欠けるところも認めざるをえません。
いずれも9月に登った時の画像です。このブログにはアップしてませんでした。
最近、登った音羽山や瓢箪崩山には「山城三十山」とタイトルにつけています。
すでに1世紀が過ぎようとしている大正時代、京都府立京都第一中学校(京都一中、現在の京都府立洛北高校)の登山グループだった今西錦司氏(人類学者、元京都大学教授、元岐阜大学長)や西堀栄三郎氏(第1次南極越冬隊長)らが、旧山城国のなかで最も標高が高い三国岳から順に30山を選んで登ったのが「山城三十山」の最初でした。その後、昭和初期に梅棹忠夫氏(民族学者、元国立民族学博物館館長)らによって見直されたのが「新山城三十山」です。
わたしも高校生(洛北高校)のころに知りました。そのころ、いくつかの頂上には立ちました。半世紀が過ぎた今になって、もう一度、登りたくなりました。
参考にしているのが「山城三十山」(日本山岳会京都支部編著、ナカニシ出版)です。1990年ごろのグループ登山記が収められています。その第1回登山がポンポン山でした。
書籍の「山城三十山」の1ページです。ここでは「新山城三十山」が「山城三十山」として扱われています。
ポンポン山はどちらの三十山でも西山の盟主となっています。ところが、釈迦岳の方は残念ながら「新」では姿を消してしまっています。
瓢箪崩山は、大原から岩倉に抜ける峠道から入ったところにある里山でした。ところがその林道はいたるところに倒木が横たわっていて、里山の荒れ方に驚かされました。わたしが中・高校生時代に北山に行くためによく乗ったバス路線も、今は運行していません。
無理をしないで、ぼつぼつと歩きたいと思います。これも Paso a Paso(一歩一歩)です。
ちょっと風邪気味で、この2日ほど家にこもってました。もう限界です。天気も良さそうなので、京都・大原から岩倉に抜ける古い峠道を歩き、途中、山城三十山の瓢箪崩山(ひょうたんくずれやま)の頂上に立ちました。
正面に比叡山がそびえます。この方角から見ると、頂上は意外となだらかです。
532.4mの頂上には三等三角点があります。
昼食には早いですが、河原町三条の進々堂で買ってきたカレーパンをかじって休憩しました。
大原から登ってきた林道は、スギの倒木の連続。1本づつまたいで登りました。
荒れ放題の里山を見るのは、悲しいです。
久しぶりに快晴でした。こんな日に家にいるのももったいないと、急に思い立って山に出かけました。向かったのは、京滋県境にある音羽山(594.3m)です。
頂上からは比叡山から比良連山、びわ湖が望めました。三角点のはるかかなたには愛宕山が頭を突き出してました。
コンビニで買ってきた弁当で簡単な昼飯でした。
ポンポン山に登りました。英会話教室のお仲間らとご一緒しました。
大にぎわいの頂上で食べた自家製お弁当です。「自分でつくる」とはいってません。時間がなかったので、「ちょっと、やってあげる」と、奥さまの助太刀がはいっています。
コンビニおにぎりと同じラップシートのおかげで、パリッとしたノリおにぎりです。
どこで買ったのか覚えていない「九条ねぎ玉スープ」」というのがあったので、もっていきました。湯を注ぐだけですが、こんな環境で食べれば、なんでもおいしいです。
食後の恒例は、インスタントのカフェラテです。これまた甘いコーヒーがうまいです。
川久保から、わたしの好きな「水声の道」を歩きました。
ポンポン山からの帰りは、島本町最高峰の釈迦岳を通って大沢に下り、さらに尺代を経てそのまま歩いて帰宅しました。
ポンポン山で4人そろって記念撮影です。みなさん健脚でした。
ポンポン山に登ったのは半年ぶりです。島本町のわが家から歩き始めて3時間。ああ、疲れました。
678.9メートルの頂上で食べたのは、「山パスタ」です。こんなところに来てまでパスタです。ちょっとダンゴ状にもなりましたが、コッフェル(鍋)から直接いただくパスタも、乙なものです。
これが1本あるだけで、パスタの味が引き立ちます。
120グラムほどのパスタを1時間半ほど水につけ、ジップロップに詰めて冷蔵庫で保存していたのを持ってきました。パスタと同量(120cc)の少ない湯に放り込むだけで、すぐにでき上がりました。
ミートソースはレトルトの出来合い。粉チーズと塩バジル(バジルの葉を塩漬けにしたもの)でアクセントをつけました。
インスタントのカフェラテも飲みました。甘いですが、こんなところで飲むとおいしいです。
ポンポン山は、これまでにないほどにぎわってました。