【6/8】
ライプツィヒはバッハだけでなく、メンデルスゾーンにとってもゆかりの町です。
聖トーマス教会の正面側にメンデルスゾーンの立派な像があります。
1809年2月3日にハンブルクで生まれ、1847年11月4日に、ライプチィヒで亡くなっています。
20歳のとき、バッハの「マタイ受難曲」の公開演奏を作曲者の死後初めて行ったことで知られます。
メンデルスゾーンが指揮者をつとめたゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地、ゲヴァントハウスからそれほど遠くないところにメンデルスゾーン・ハウスがあります。メンデルスゾーン家は、銀行業で成功していたため、家もこの通りに立派です。
建物の手前に入り口はあります。
メンデルスゾーン資料館に残されているピアノです。
旅行用バッグが置かれています。
気持ちのよい中庭です。右手にはメンデルスゾーンが開校し、校長となったライプツィヒ音楽院の施設があります。
木陰でくつろぐ音楽院の学生たちです。
メンデルスゾーンの胸像が、ハウスを見上げています。
環状道路沿いにはメンデルスゾーン音楽演劇大学がありました。
メンデルスゾーンは1843年にドイツ初の音楽高等学校であるライプチィヒ音楽院を創設しました。同校の日本人留学生第1号は瀧廉太郎でした。
【6/9】
ワイマールにはリスト・ハウスがあります。1869年から亡くなる867年までここで暮らしました。
ワーグナーやブラームスもこの家を訪れているそうです。
内部の撮影は許可されていませんが、リストのデスマスク、作曲に使用したピアノなどが展示されていました。
マルクト広場からそれほど遠くないところにワイマール・フランツリスト音楽院はありました。
ブダペストのリスト音楽院と比べると、ちょっとこぢんまりとしていました。