「週イチ20キロ」の12日は、堺の大小路から河内長野の東高野街道との合流点まで続く西高野街道を歩きました。
高野山を目指すこの参詣道には、女人堂までの一里(約3.9キロ)ごとに里程石が残っているそうです。
最初の「十三里石」は、南海・堺東駅から東に進んだ地蔵堂の脇にあります。
「是より高野山女人堂江十三里」と刻まれています。高野山女人堂への13本の里程石は安政4年(1857年)に建立されました。
すぐ先は、竹内街道との分岐です。
十二里石は、白鷺公園を越えたあたりの地蔵堂にあります。地名の堺市東区関茶屋は、そこに街道の茶屋があったということなのでしょうか。
十一里石は、狭山池近くに石柱だけが残っています。
十里石は、南海・滝谷駅近くにあります。ここも民家の塀際に石柱だけが立ってます。
西高野街道にある最後の九里石は、終点の河内長野近くにあります。地蔵堂には、大峰山の「三十三度」の碑なども並んでいます。
【9:40】
南海・堺がスタートです。
駅前で恒例のタブレット端末「NEXUS7」のアプリを起動させました。
大小路筋(おしょうじすじ)を東へ歩きます。
広い歩道のカラーマンホールは2種類。これ以外に市章をデザインしたのもあります。
【9:46】
大小路と南海・阪堺線が走る大道の交差点南西角の堺警察署前の歩道には、「泉摂両国 堺南北両庄の界 大小路」の石碑があります。
交差点の南東角にも石碑が立っていたので見に行くと、南へ伸びる「紀州街道」の出発点でした。
交差点の北東角には「晴明辻」の碑が。平安時代の陰陽師、安倍晴明が占い書きを埋めた場所で、占辻(うらないつじ)とか晴明辻とか呼ばれているそうです。
あたりをきょろきょろと歩きましたが、肝心の「西高野街道」の起点を示すものは見つけられませんでした。
【10:03】
東に歩を進めて南海・堺東駅前の堺市役所で右折します。
【10:15】
十三里石のすぐ先が、「日本最古の官道」と呼ばれる竹内(たけのうち)街道との分岐です。
わがフジサンケイグループが、大阪の各地の歴史の道に建てたモニュメントには「右西高野街道 東竹内街道」と記されています。
少し進むと、新しい「西高野街道」の石碑が立っています。堺市が平成に入って立てたようです。
【10:23】
南海・高野線を再び越えて、中央環状線の高架陸橋に立つと、目の前に小山のような仁徳天皇陵が広がります。
仁徳天皇陵の堀わきに「ミユキ御苑」と筆太に掘り込んだ石碑が立ってます。周りを見渡しても、なぜこんな碑があるのかわかりません。
ネットで調べてみると、昔、ここにそういう名の「ラブホ」があったようです。石碑の雰囲気から、なんとなく納得です。
【10:30】
南海・三国ヶ丘駅前です。摂河泉の三国の境界です。
このあたりだけは国道310号に沿って歩きます。
国道を離れて街道を歩きます。ちょっとその雰囲気も残っています。
【10:58】
南海・中百舌鳥駅を左に見て歩き続けると、大阪府立大学の正門に出ました。
【11:08】
ちょっと街道を見失って白鷺公園に入ってしまいました。
【11:27】
十二里石を通過して歩き続けます。
暑いです。冷たい水を飲みました。
【11:45】
「左たきだに道」と読める分岐です。
それにしても暑いです。腕時計の寒暖計は「31.5度」を示しています。
【11:55】
西高野街道は、国道310号に沿いながらも、ほとんどの区間が細い道として残っています。車の排気ガスを浴びなくてよいのがせめてもの救いです。
堺市が建てた「西高野街道」の石碑は、これでもか、これでもかというくらいの頻度で登場します。ちょっとやりすぎのような感じも抱きました。
【12:26】
十一里石を通り過ぎて、左側は大阪狭山市になりました。
「西高野街道」の石碑のデザインが、やっと変わりました。
【12:27】
天野山に向かう天野街道(右)との分かれ道です。
【12:37】
「おわり坂」と呼ばれる急坂を下ります。目の前に金剛山と葛城山が広がりました。眺めは抜群ですが、電柱が邪魔です。
【12:55】
お腹が空いたなと考えながら大阪狭山市内を進みます。
【13:45】
昼飯を食べて元気を回復。河内長野市内を歩きます。
【13:57】
十里石を過ぎたところで、左からの道と合流(写真は後ろを振り返っています)しました。大阪から出発して松原を経てくる「中高野街道」でした。こんな街道もあるのです。
【14:17】
晴明塚です。
安倍晴明が死期が迫ったのを悟り、秘伝書「金烏玉兎集」を焼いたとされる場所だそうです。灰にも霊力があると深く埋めて塚にしたという伝説があります。
晴明辻から歩き始めて、この街道の両端には安倍晴明の由緒があります。
【14:28】
南海・河内長野駅前の東高野街道との合流点に到着しました。