my camino=29日目 Mr. ルミックスの自慢のカメラ 

 オスピタル・デ・ラ・コンデサのバルで朝食を食べていました。ガリシア州に入ると、トーストしたパンにお目にかかるようになっていました。そこに長いマントを翻した中世風のいでたちのペルグリーノが入ってきました。横にいたミスター(Mr.)ルミックスは即座にカウンターの向こうに回り込み、クレデンシャルにスタンプを押す男を撮影してました。
 「どうだい、よく写っているだろう」と、ミスターはわたしに撮影したばかりのモニター画像を見せて自慢げでした。座ったままだったわたしの写真(上)とは雲泥の差でした。
 ミスターが胸から下げている大きなカメラは、日本製のLUMIX(Panasonicのカメラ・ブランド)ミラーレス一眼のフラグシップ機でした。 「これがいま、ドイツで手に入る最高級のカメラだよ」と胸を張っていました。かのライカなんかを生んだ国のお方が、何をおっしゃるのかと思いながらも、日本人としてまんざらではありませんでした。

 ミスターとはここ数日、何度も顔を会わせてました。大きな栗の木の下で休んでいると、ミスターが近づいてきて「写してやるよ」と私の小さなコンデジ(コンパクト・デジタル・カメラ)を受け取って記念撮影してくれたこともありました。大きくて重たいカメラを胸にしながらも、ひょいひょいと身軽なこなしで巡礼路を右に左に動き回り、たくさんの写真を撮影していました。背には、小さなザックしかありませんでした。大きな荷物は、コモドに頼んで運搬してもらっていたのでしょう。
 そいえば、似顔絵師と名づけたKさんも同じでした。オリンパスのミラーレスにデカいプロ仕様のズームレンズをつけていました。
 カミーノにどんなカメラを持っていくかは、わたしにとって大きな迷いでした。ニコンのデジタル一眼は重たすぎて、もはや選択外でした。LUMIXのGM1というかわいいミラーレス一眼は気に入ってましたが、それでも中途半端にかさばり、両手でウォーキング・ポールを握ると、もって行き場に困りました。結局は、前回のカミーノでも使ったコンデジに落ち着きました。
 新たに用意したのは、CANONのG9Xという大型センサー搭載の機種でした。これだと胸ポケットに入れることができました。わたしは、小さなバッグを前抱きにして、その中にガイドブックとともに放り込んでいました。そのできばえについては、このブログでご覧になっている通りです。
 もう1台、用意したのはスマホのカメラです。わたしのスマホは防水仕様だったので、雨の日はこちらを使う予定でした。幸い、その雨には降られることはなく、出番はありませんでした。
 カミーノでは、あちこちでみんなが記念撮影していました。でもそのカメラで一番多かったのは、実はスマホでした。最近のスマホのカメラは、びっくりするほど優秀になっていて、このお手軽さに勝るものはないかもしれません。
 わたしは帰国後、LUMIXのGX7MK2というミラーレスをゲット。何本かの交換レンズの中から20㎜、F1.7というパンケーキのようにかわいい単焦点レンズを常用しています。スマホのカメラを使うことはありません。

 【追記 2021/06】
 LUMIX GX7MK2は2台目のボディーを使い続けています。レンズはライカブランドのVario-Elmarit 12-60というズームです。少々デカくて重たいですが、すっかり慣れてしまいました。山を歩くときも両手でポールを握り、カメラは首にぶら下げています。最近の写真は、わたしのブログ「『どたぐつ』をはいて・・・」の方にアップしています。
 

Paso a paso Dos 29日目=9/22 下り道をゆっくりと

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 オ・セブレイロの峠は越えた。その後もしばらくはアップダウンを繰り返し、やがてトリアカステーラに向けて下っていく20kmほどのステージ。
 サン・ロケ峠には、強風に帽子を押さえて耐える「サン・ロケ峠の巡礼所者」が。ヒョウタンをぶらさげた杖の上部はなくなっていた。

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 追い越されるのもいいものだ。左足首はやはり痛い。ゆっくりとマイペースで歩いた。

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 トリアカステーラのアルベルゲで食べた夕食。隣のスーパーメルカドで買ってきたレトルト・パスタの上に、トマト味のサーディンをぶちまけた。予想外にうまかった。
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巡礼道の運び屋

巡礼道には、運び屋が存在します。わたしも試してみました。きょうは、オ・セブレイロの峠まで、700mを登る行程でした。
朝のアルベルゲに、ザックを置き去りにしました。

きょう宿泊予定のアルベルゲと連絡先なんかを書いた封筒をぶら下げておきます。料金の5€も入れて。

峠の登り口でこんなポーターに追い抜かされました。巡礼者が馬の背で運ばれて行きます。

オ・セブレイロのアルベルゲに着きました。まだ開いてません。ザックを並べて待ちました。わたしのザックは、どこかに着いていると思ってました。

ありません。公営アルベルゲのホスピタレイロは、そんなの知らんとけんもほろろです。
「バーに届いてるよ」と教えてくれる人がいて、村のレストランを1軒ずつ捜索です。同じように探している人もいて、業者に電話してもらうと、あと半時間で到着するとか。わたしの足の方が早かったようです。

となれば慌てても仕方ありません。ビールを飲んで待っていると、やがてワゴン車が到着。わたしのバックもありました。
ここでもスペイン時間を思い知らされました。

my camino=28日目 遍路転がし」に転がりそうになる 

 オ・セブレイロの峠越えでした。前夜のペレヘのアルベルゲからは、初めてザックをポーターに預けました。「コモド」というサービスで、アルベルゲに業者が置いている封筒のような荷札に目的地なんかを書き込み、料金の5ユーロをいれ、アルベルゲに置いておきます。ザックは業者によって車で集められて、その日の午後には目的地のアルベルゲまで運ばれるシステムでした。
 「一度、これを使うと、もうやめられないですよ」
 リタイア3人組のひとり、Kさんは毎日、これを利用していました。その代り、胸には重たいレンズを装着したカメラをぶら下げていました。こういう選択もあったのです。
 峠への道は25キロほどでした。サブザックに必要最小限のものをもっただけで、ザックを背負っていない空荷でした。楽勝のはずでした。
 そんな時に限ってトラブルに見舞われました。
 四国88ヶ所のお遍路には、「遍路転(ころ)がし」があります。最初の遍路転がしは11番・藤井寺から12番・焼山寺に向かう遍路道です。それまでの吉野川沿いの平たんでのどかな道から一転、厳しい山道となります。覚悟の足りない遍路は、ここで根をあげてしまうのです。「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」といわれる阿波の3か所は、なかでも難所です。
 サンティアゴ巡礼でも、最初のピレネー越えやぺルドン峠に始まって、メセタという遮るものがない平原も「遍路転がし」の道でした。終盤にさしかかる前に立ちはだかったのがオ・セブレイロの峠越えでした。
 左足首がチクチクと痛みだしました。レオン辺りを歩いていたときに痛かったのは右足です。テーピングの効果は絶大で、あの時の痛みは忘れていました。
 たいしたことはないだろうと、たかをくくっていました。それでも痛さは増すばかりでした。よほどトボトボと歩いていたのでしょう。引き馬の出発点となるヘレリアスのベンチで休憩していると、おばあちゃんが声をかけてくれました。「あんたも乗っていく」。老夫婦の巡礼はここまでがやっとで、おじいちゃんが電話でタクシーを呼んだところでした。
 ありがたさでジーンときました。でもまだ申し出を断るほどの意地は残ってました。
 そこから本格な登り道になりました。地元のおばあちゃんが独り、さらに山奥の村にでも向かうかの杖を頼りにゆっくりと歩んでいました。わたしも同じペースでその後に続きました。いったん立ち止まると、もう一度歩き始めるのがいち段と痛いので、ラグーナ・デ・カスティージャ村は横目で通り過ぎました。
 引き馬の一団に追い抜かされました。うらめしげな表情で見送っていたはずでした。
 「¡¡paso a paso!!」というのがわたしのカミーノのタイトルでした。日本語では一歩一歩です。ゆっくりでも歩き続けると、いつかはゴールにたどり着けるものです。
 それでもなんとか最後まで歩き切ってオ・セブロイロの公営アルベルゲに着いたのは、オープンする午後1時より早かったでした。

Paso a paso Dos 28日目=9/21 足を引きずりオ・セブレイロを登る

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 終盤に向けての難関、オ・セブロイ峠(1330m)への24kmほどの登りです。荷物はポーターに預けて万全を期したのですが、途中から左足首がチクチクと痛くなってきました。レオンのころに痛めたのとは反対の足。部位もちょっと上でした。

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 それでも昼過ぎには峠に着きました。1時からのアルベルゲ・オープンを待ってチェックイン。預けていたザックを探しにカフェを巡りました。

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 夕食に食べたのはボイルドハム?

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ブドウほお張る巡礼道

ブドウの収穫があちこちで行われてます。
おっちゃんに「写真撮らせ」と頼んだら、ボーズを取ってくれました。ちょっと緊張気味です。
期待したわけではないですが、「これ持っていけ」と2房くれました。ありがたく、1房だけいただきました。

端からほお張ります。甘さが口中に広がります。ワインもいいですが、こちらは採れたて100%の新鮮ジュースです。
ペェッ、ペェッと皮と種を巡礼道に吐き捨てながら、幸せな気分で歩きました。

広大なブドウ畑です。収穫は1房ずつ手作業です。

ブドウ畑の向こうに、奇妙な一軒家が建ってます。
きょうも30キロ歩きました。ゴールまで200キロを切りました。

Paso a paso Dos 27日目=9/20 ブドウ畑を抜けて

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長かった巡礼も、あと200kmとなった。
この日は最後の難関、オ・セブロイドへへの登りの負担を軽くしようと、ペレヘまで30kmのロング・ステージ。実は、これが裏目に出た。

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昼飯は、ビジャフランカ・デル・ピエルソで。
まだ早かったので、さらに歩いた。

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翌日の峠越えでは荷を軽くするため、ザックは「コモド」に運んでもらうよう準備した。

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鉄の十字架と「五大力」

イラゴ峠(1505m)に着きました。鉄の十字架が立ってます。古来、巡礼者は、出身地から携えてきた石を供えて祈ります。

到着したときは、月明かりの中でした。

十字架の下には、多くの願いがこめられた石が置かれています。

わたしも準備していました。

住吉大社のパワースポットでいただいた「五大力」です。御守りとして、ザックにぶら下げていました。

母や妻、家族の健康、孫の生育、娘の安産なんかを祈願して、石を置きました。

御守りがなくなるのは心もとないので、どなたかが携えてきた小石を3個いただき、御守り袋に詰めました。住吉大社にお返しに行きましょう。

またひとつ、峠を越えました。

あと220キロほどです。

my camino=27日目 ザックの重さは、体重の10分の1 

 昼過ぎにアルベルゲに到着すると、最初にベッドの上にシュラフを広げました。早い時間だとたいていは「お好きなところに」。わたしは、片面が壁になっている隅の下段を選びました。次にシャワーで汗を流し、洗濯場に直行して汗にまみれたTシャツや下着を手洗いしました。ロープにつるしておくと、スペインの午後の日差しを浴びて、夕刻には乾いてしまいました。
 Tシャツや下着類は、基本的に3組しかもっておらず、初日から最終日まで、これのローテーションでした。幸い雨に振られなかったので、2交代でも回りました。ファッションとは無縁の世界でした。毎日、同じ格好をしていても、かえって目印になっていいくらいのものでした。
 それほどまでして荷物を軽くしました。すべてをザックに入れて背負って歩くのですから。
 ザックの重さは、体重の10分の1までが理想といわれています。となると、わたしの場合は6.5キロになります。そこまで軽くするのは至難の業でした。学生時代に山に登っていたころは、キスリングザックと呼ばれた帆布の重たいザックに20キロほどの荷物を背負い、1週間を超える縦走登山をしたこともありました。でも、それは過去の話でした。
 ケチケチ大作戦でした。まずザック。わたしは前回のカミーノでも使ったOSPRAYの38リットルでした。容量が大きいのを選ぶと、なんでも詰め込んでしまいます。ザック自体の重量も同容量のものの中で一番軽い部類でした。シュラフ(寝袋)は、化繊よりも軽いISUKAのダウン製で500グラムほどです。2万円以上しましたが、ここでの軽さは、全行程に影響します。歩くときには必ず背負っているのですから。
 雨着は、ゴアテックス(半透過性繊維)製の上下をもっていました。丈夫ですが、重さが気になりました。これもCOLUMBIAの軽いものに買い換えました。
 机の上に、調理用の計量器をもってきて、すべて装備の重さをはかりました。これは、本当にいるのかどうかと、厳しい目でチェックしていきました。いるか、いらないかと迷ったときは、これはいらない。これは、もっと軽いのが手に入るはずと。
 スペインに出発する朝。大阪・水無瀬の自宅を出発するときは、巡礼中にはくミドルカットのシューズやウォーキング・ポールもザックに詰め込んで8キロほどでした。減量作戦はほぼ成功でした。おかげで、カミーノを通じてザックの重さに苦しんだことはありませんでした。
 重さとは関係ありませんが、I’m Japanese! と、ザックに日の丸を縫いつけていました。

my camino=26日目 鉄の十字架と五大力 

 イラゴ峠(標高1505メートル)には「鉄の十字架」が立ってました。といっても全体が鉄でできているわけではなく、8メートルほどの木の柱の先に設置されていました。
 カミーノの道中で、古来から聖なる地としてあがめられてきました。ペルグリーノは出身地で拾って願いを込めた石を持参して、この十字架の下に置いていく習わしが受け継がれています。
 わたしも準備していました。その年の5月に、娘の安産祈願で大阪・住吉の住吉大社に参りました。太鼓橋で知られる神社です。お参りを済ませて、「御所御前」といわれる「御祭神の住吉大神が降臨した地」を歩きました。そこにあったのが「五大力石守」でした。住吉大社のパワースポットでした。狭い石柱の間から腕を突き出して、玉砂利の中から「五」「大」「力」と書かれた小石を拾いました。その時点で、鉄の十字架まで持っていきたい、いや持っていこうと考えていたのです。
 それをお守り袋に詰めて、ザックに忍ばせてきました。3つの文字が書かれた石を取り出して、十字架の下に置きました。妻や母、家族の健康、孫の生育、そして娘の安産なんかを祈願しました。
 玉石混交というのもおかしいですが、いろんな宗教、習わしがごったまぜになっている気もします。でもそのときのわたしは、ここまでやってこれたという満足感でいっぱいでした。
 帰国後の12月。今度は鉄の十字架でいただいてきた3つの小石に、五大力と書き込んで住吉大社に返しに行きました。3つの石の出身国は違ったかもしれません。願いが叶ったときには「倍返し」するのがしきたりでしたが、それはできませんでした。
 わたしの宗教観は、せいぜい縁起かつぎくらいのことです。正月には京都の実家近くにある上賀茂、下鴨神社に詣で、彼岸には亡父が眠る宇治・興聖寺に参ります。J・S・バッハのマタイ受難曲は、一番好きな音楽です。そして、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂では、巡礼者のミサに出席しました。聖体拝領を受けることはできませんでしたが、敬虔な気持ちになりました。ボタフメイロ(大香合)のたなびく煙を浴びて、身が清められました。