天正10年(1582)6月1日亥の刻(午後10時)、明智光秀は丹波・亀山城(亀岡城)を発った。織田信長の命で、備中・高松城を水攻めしている羽柴秀吉の援軍として山陽路を行くはずだった。それが老ノ坂を越えた。京までの山陰道の道のりは5里(約20キロ)。途中、沓掛で1万3000の軍勢を休息させ、桂川を渡ると火縄に火を転じさせた。「敵は本能寺」という軍令が発せられた。
そんな史実が残る山陰路を、亀岡から京都まで歩きました。全行程35,814歩という、なかなかの行軍でした。
9:34=明智光秀が城主だった丹波・亀山城の桜です。