朝鮮通信使も通った「唐人澪」あたりを歩く

 「唐人澪(とうじんみお)」は、江戸時代の朝鮮通信使が利用した公的な水路のことです。大阪・大正あたりの尻無川(しりなしがわ)がそれにあたります。
 朝鮮人街道を鳥居本から草津まで歩いたつながりで、海からの上陸地点を散歩しました。
 京セラドーム大阪の横を流れる尻無川を集団でのおぼってくる水上バイクの一団です。江戸時代の大阪人も、こんな風にのぼってくる通信使の大船を見に集まったそうです。


 地下鉄西長堀から歩き始めました。西区役所の裏通りから西に歩き松島橋を渡りました。そこからが、昔の九条島です。
 昔の松島橋は、大きな反橋で、下を舟が通り抜けることができたそうです。

 古い松島橋の欄干が残っています。

 松島公園には、懐かしいデザインの石碑が建ってます。「九条 朝鮮通信使」の碑です。フジサンケイグループが「街角の再発見」として、あちこちに建てた碑のひとつです。
 「江戸時代の朝鮮通信使は、江戸への行き帰りに大坂で多くの学者、文人と交流しました。正史らの江戸参向中、水夫らは大阪の川口で船泊まりし、竹林寺で旅情を慰めました。」と碑文にあります。

 碑文にある竹林寺は松島公園の西側にあります。

 本堂裏に「金漢重(キム・ハンジュン)」の墓はあります。
 明和元年(1764)、11回目の朝鮮通信使としてやって来た金漢重は、大坂で病気になりここで亡くなります。故郷に残る二人の子どもに会いたいという金の願いを叶えようと、大坂の医者は同じくらいの年の子どもを枕辺で看病させたそうです。

 明治になると、このあたりは「松島遊郭」としてにぎわったそうです。
 現在もその残り火はあります。「十八才未満立入禁止」で「ホステス募集」の店が並びます。中には、店先でストーブを背に道路を向いて座っているホステスもいて、ちょっとびっくりです。

 「大阪市電発祥の地」の碑です。明治36年(1903)、ここ九条新道の花園橋から築港埠頭まで約5キロに大阪市電が開通しました。公営の電気鉄道としたは、日本初だそうです。

 千代先橋から木津川に沿って遊歩道がつながってます。対岸の護岸にはウオールペイントが。その説明プレートもあります。

 昔の大坂の地図です。護岸に掲示されていたのを接写しました。

 京セラドーム大阪です。大阪ガスの工場跡地に建設されました。

 岩松橋から三川の合流を眺めます。正面は木津川、左に向かって尻無川です。

 正面の水門が道頓堀川です。

 木津川は大正橋をくぐって右へ流れていきます。

 尻無川の河川敷公園です。向こうをJR環状線が横切ります。

 岩崎橋公園付近の「御船蔵跡」です。幕府の官船・川御座船を納める場所です。朝鮮通信使は、ここで大船を停泊させ、川御座船に乗り換えて大阪市中に向かったそうです。
 ちょっと肌寒いですg、咲きかけた桜の下で近くの施設の花見の宴が始まってます。

 尻無川の沿って歩くと、しゃれた店に出会いました。

 大正橋の袂まで戻ってきました。ここに木津川口遠見番所がありました。不審船や不審人物を高所から監視していたのです。
 朝鮮通信使が木津川川口にやって来たときは、珍しい衣装や貢物の珍獣を見ようと、大阪庶民が堤防を埋め尽くしたという記録が残っています。

 今回の散歩は「大阪あそ歩 まち歩きマップ集 その3」(大阪あそ歩まち歩きマップ集町衆会議編集、大阪コミュニティ・ツーリズム推進連絡協議会発行、780円)を参考にしました。他にも歩いてみたいコースが満載です。

 京街道を上る 朝鮮人街道を歩く
  鳥居本~能登川
  能登川~安土
  安土~近江八幡
  近江八幡~野洲

 人気ランキング・アップへの応援をお願いします。下のバナーをクリックしていただくと、1票です。