JR米原駅。
「ひかり」でやって来た鎌田と合流する。
長浜を通過すると、東側の窓に伊吹山fが。
頂上は雲に覆われているが、この青空。田んぼも白くなる。
木ノ本駅に近づく。平和堂の看板の上が目指す賤ヶ岳のピーク。左の白い帯は観光リフト(現在は休止中)。
北陸線のJR余呉駅に着く。
ホームにも雪が積もっているが、この天気、この気温。いつものことながら、抜群の日和となった。
余呉駅前。コンビニはもちろんのこと、開いている店は一軒もない。
昼食の弁当を、米原駅で仕入れた人は大正解。
登山口までの県道は融雪装置ため、雪は溶けている。
登山口に足を踏み入れると、一気にこの状態に。
踏み跡をトレースして、雪道を登る。
「なに、この大股のうえ、120度も開いてるの。歩きにくい」と、先頭の足跡にブーイングも。
ちょっとひと息。眼下に余呉湖が。
大岩山の雪の林の中に中川清秀の墓。
「大岩山は1583年に最初の賤ヶ岳合戦があった陣地で、柴田勝家の部下で尾山(金沢)城主佐久間盛政が大岩山の砦を奇襲する。この陣地を守る茨木(大阪)城主中川清秀が奮戦するも全員壮絶な最期を遂げた。この軍勢は柴田勝家の帰参の命に随わず戦勝に酔った。この報を知った豊臣秀吉は急遽大垣より駆け付け賤が岳の合戦となり、秀吉軍の大勝利となり柴田勝家滅亡の因となった」と、案内板に書かれている。
「隊長」も参加してくれて、みんな安心。
足跡ひとつない膝までの雪を歩く。
自害した中川清秀の首を洗ったという「首洗い池」を通る。
賤ヶ岳頂上に立った。見下ろす余呉湖がきれい。
はるかに北国の山々。ここで羽柴秀吉と柴田勝家が対峙した。
「七本槍」の武将、加藤清正にでもなった気分で。
ちなみに七本槍とは、福島市松正則、加藤虎之助清正、加藤孫六郎嘉明、平野権平長泰、脇坂甚内安治、糟屋助左衛門武則、片桐助作且元。何人ご存じ?
雪の頂上。積雪がもっとすごいのかと想像していたが…。
木之本町方面を見下ろす。左手かなたに伊吹山。
展望小屋で昼食にする。
コーンスープとロイヤルミルクティーで体を温める。わずかながら、早くもアルコールを体内で燃焼させる人も。
飯浦から奥琵琶湖ドライブウエーにかけての湖岸を見下ろす。琵琶湖一周の旅で歩いた道である。
賤ヶ岳の頂上。
われわれの他にはだれもいない。
道中ですれ違ったのも、ほんの数組だった。
「七本槍古戦場」の案内柱の前で記念撮影。今回も7人もが集合した。
撮影はヒロタ画伯。
はるかに竹生島が浮かぶ。右後方に比良の山並みが霞む。
アイゼンを付けて一気に下山する。
余呉湖と飯浦との分岐の峠。二人は一昨年秋、、この道を飯浦(左)に降りた。
湖岸の国民宿舎前に降り立つ。雪道は終わり、ほっとひと息つく。
早々とスパッツをはずしたサトウは、いつも先頭を切る早足で民宿へ急ぎ、、余呉駅のコインロッカーから荷物を回収してきてくれる。
賤ヶ岳頂上を振り返りながら、湖岸を歩く。
今夜の宿となる民宿「文右エ門」。築後数百年の古い民家を移築している。
別棟のレストランで、さあ、宴会の始まり。
民宿自慢のかも鍋。だしをいれて炊き、すき焼きのように醤油と砂糖で味付け、たまごに付けて食べる。
これでかも一羽分。骨もすりつぶしたミンチや肝もついている。
持ち込みのにごり酒、焼酎も加わって最高潮に。
ビールは着いたが、バーボンはまだかいな?
一階には立派ないろりがしつらえてある。夏の伊豆の民宿のように、ここで食事がしたかった。
蓑傘でもない民具がつり下げられている。
「阿多古」(愛宕神社?)のお守りも。
最後は、昔の写真を眺めて、「やっぱり下野さんって、だれ?」っと、遅くまで。
三階は資料館になっている。
原と二人で4時半に起きだして、ヘッドライトをつけてわかさぎ釣りに。暗いうえに老眼ため(?)、仕掛けをセットするのに一苦労する。
二人合わせた釣果はこの通り。50匹はいる。これでも、隣で釣っていたベテランの半分以下。
お世話になった民宿をチェックアウト。
二人の釣果に挑発され、みんなでわかさぎ釣りに挑戦することに。
入場だけなら300円でよかった。
思わずにやり!!
ビギナースラック!
暖かくなったせいか、食いは悪い。
女性陣の健闘を横目に、5分ほど釣り糸を垂れただけでギブアップした人も。
釣り竿持参のこの人も、手応えを感じる前にコーヒーを飲みに行ってしまう。
正面が賤ヶ岳頂上。
釣り上げたわかさぎを尾頭付きで天ぷらにする。
「うん、うまい」
ママカリの干物を火にあぶる。これもいける。「まんま」はないが、酒のさかなにぴったり。
立ったままでも、おいしく楽しい食事である。
釣り上げたわかさぎは、7人の胃袋に収容された。ちょうどよい量だった。
ちらほらと雪が降ってくる。
余呉駅。3両編成の電車しか止まらないのに、ホームは延々と続いている。
長浜で途中下車する。
黒壁スクエアーは、冬だというのに観光客でにぎわっている。
観光客に交じって歩く。おみやげは草餅というひとも。
観光客ばかりの黒壁ガラス館前で、似つかわしくない一団が人通りを遮って記念撮影。
おみやげのガラスを手にする。どれにしようか?
この日はご主人の誕生日。鍋の用意は済ませてきたそうだが。
C571、愛称「貴婦人」の前は記念撮影する人でいっぱい。
ひとり旅の格好をつけて。
わたしの帰途、長浜-山崎間のJR運賃は1450円。余呉まででも1600円ちょっとで、楽しい2日間をすごした。東京からきた人は、これほど手軽ではなかったが…。
次回プランの提案もあった。
ムラタが顔を見せてくれた夜
2004/09/24
大阪・ミナミ、ミュンヘン2階の居酒屋にて。
久しぶりにムラタが元気な顔を見せてくれる。
ビールから焼酎に移り、みんなが盛り上がってきたところで、とんだ事態に。サトウが1年後輩の×クンに電話したところ「(43年の)○○さんが亡くなられたというメールがありましたが…」との報。エッと全員、青ざめる。
○○ちゃんのことならと、カマダに聞いてみたが、ウッソー!! △△ちゃんなら知らないはずはないと、突然ながら電話してみて、○○ちゃんのところに電話を入れてもらう。結果は「大誤報」だったことが判明。よかった、よかった。
それにしてもお騒がせな一件でした。携帯やらメールやらですぐに連絡が取れるばかりに、かえって怪しい情報も広まって。電話で確認するまでの間、涙がでてきたという△△ちゃん、驚かせてすみません。
でも、こんなハプニングがあったからこそ、みんな、久しぶりに△△ちゃんの声を聞くことができました。一番喜んでいたのは…??
すっかり酔いも覚めて、飲み直しとばかり2本目の焼酎を頼んでしまいました。
ムラタは次の機会も出てくると約束してくれました。△△ちゃんも、○○ちゃんも今度は顔を見せてください。欠席が続く隊長も。待っています。
Wien und Salzburg ’04
2004年夏。55歳の誕生日を迎えてこの時期としては初めての長い「リフレッシュ休暇」を取ることができました。長年の夢だった「ザルツブルクでウィーンフィルを聴く旅」の実現です。
7泊8日の海外旅行です。わたしはヨーロッパへの渡航経験もありましたが、妻は初めて。旅行代理店の主催するパック旅行も調べました。しかし、どの旅行もあわただしく名所を巡る旅が中心でした。
語学に自信があるわけではないですが、選んだのは「個人旅行」でした。ネット上に私の旅行計画の希望を書き込み、応札してくれたネットトラベルの個人旅行代理店数社の中から気に入った相手とメールのやりとりで手配を頼みました。
頼んだのは、オーストリア航空の関西空港発着の往復チケット(帰りはザルツブルクからウィーン乗り換えで関空まで)、ウィーン-ザルツブツクの1等鉄道乗車券、ホテル(ウィーン4泊、ザルツブルク2泊)、ウィーン空港-ホテル、ホテル-ザルツブルク空港の送迎(混載)だけでした。
後は、すべてネットで予約しました。
ザルツブルク音楽祭は、HPもしっかりしており、英語のページもありました。ちょっと不安もありましたが申し込むと、すぐに予約受付のメールがきました。しばらくするとクレジットカードからの引き落とし通知があり、チケットも郵送されてきました。あっけないほど簡単でした。
ウィーンでのクランクボーゲンの予約は、もう少し大変でした。HPにはドイツ語の画面しかなく、学生時代の「独和辞書」首っ引きでした。それでもクレジットカードの番号を書き込むにはちょっと不安が残って、ドイツ語が堪能な知人に問い合わせのメールを入れてもらって、予約しました。これも、予約後、チケットが送られてきました。
バッハウ渓谷のツアーはJTB系の代理店ですので、日本語で難なく予約しました。
ザルツカンマーグートのツアーは、JTBのMyBusとは日程があわず、現地の日本語ツアーを予約しました。英語で予約しました。返答のメールがなく、心配になり、メールをいれたところ、予約は受け付けているというメールがきました。
旅行直前に高齢の父親が入院するというハプニングもありましたが、なんとか出発できました。
1日目(8/17) 関西空港-ウィーン
9:24
いよいよ出発。
関西国際空港で出国手続きを済ませ、出発ゲートで離陸を待つ。父親の容体も気になり「本当に行けるのかな」、と心配もあったが、ここまで来てしまえばもう行くしかない。
朝食抜きで家を出てきた。サンドイッチをほおばり、ペットボトルのお茶とおにぎりを買い込む。日本食ともしばしのお別れとなる。
VIE(ウィーン空港)行きのオーストリア航空OS056便のクレーム・タグ
15:09(現地時間=JST+7hr)
時計の針を現地の夏時間にあわせて7時間遅らせる。
オーストリア航空のエアバスA340の機内。一応、席にはディスプレーも付いており、窓際だった。それでも、エコノミー席で12時間はやはりキツい。
15:52
ウィーン空港に降り立つ。入国手続きはいたって簡単。
ところが、荷物を受け取る客はまばら。関空で同じ便に乗り込んだバリトン歌手の三原剛氏らはどこに行ったのかと首をかしげるほど。
16:04
手配してあった「混載」の出迎えは、われわれ二人だけ。しかもベンツだった。感激したが、周りをみると、どのタクシーもみんなベンツ!! しかもパワーウインドーが付いていない!! ぐるぐる
手で窓を開けるなんて、懐かしい。
英語であれこれ説明してくれるが、あまり返答できずに先が思いやられる。
17:32
リンク沿いのホテルで一服後、歩いて10分ほどのケルントナー通りへ。ウィーンの銀座といった趣で、観光客であふれている。
あちこちから大道芸の音楽が聞こえてくる。
17:34
ウィーンの中心にそびえるシュテファン寺院。ここを中心として同心円状にウィーンの街が広がる。
17:35
ゴシック建築の直線の上には、きれいな模様の屋根が。
18:38
ケルントナー通りを10分ほど歩いてくると、リンクと交差する。その角にオペラ座がある。小沢征爾の本拠地である。
モーツァルトの衣装を着たダフ屋が何人もいて、「チケットあります」とにぎやかだ。
18:53
「NORDSEE」という魚料理のチェーン店で夕食。カフェテリア方式なので、現物を見てほしいものを指差すだけすむ。メニューを見なくてもよい。
18:53
通りのいたるとろにテーブルと椅子が並び、コーヒーを楽しむ人、ビールを飲む人がくつろいでいる。
6:17
時差ぼけで早く目が覚める。ホテルの目の前にあるStadPark(市立公園)を散歩する。
記念撮影する観光客が途切れることはないというヨハン・シュトラウス像の前も貸し切り状態。
6:17
金色に輝くワルツ王はウィーン一の人気作曲家である。
6:26
こちらはリンツ生まれの作曲家・ブルックナーの像
6:30
シューベルトは純粋のウィーンっ子。像の周りの花の量から人気のほどがよくわかる。
ウィーンには観光名所がいたるところにある。
6:34
ウィーンの旧市街を取り巻いていた城壁が取り除かれ、リンクと呼ばれる環状道路になった。路面電車が走っている。
6:59
路面電車の料金は1.5ユーロ。左端の自動販売機で買える。しかし、切符を買っている人はほとんどなく、降車時にも切符は見せなくてよい。運転手は運転に専念するだけだ。あれで料金は回収されているのだろうか。不思議なシステムである。
右上は駅の自動販売機で買った1回券で1.5ユーロ。同じものが車内で買うと2ユーロ。
左下は72時間有効で12ユーロ。最初に時間を刻印するとあとは乗り放題。
7:01
初日に行き先を確かめずにとりあえず飛び乗った路面電車は、リンクをはずれて北部のハイリゲンシュタットに向かってしまった。
今回は「Ring-Kai-Ring」と表示された電車で一回りする。20分ほどで、リンク沿いの観光名所を確認できる。
7:10
古い宮殿二つをあわせてホテルにした「Radisson SAS Palis」。1階(日本風に表現すると2階)の左から3番目の窓の部屋に4泊した。
ホテルの領収書。部屋からパソコンをインターネットにつないでいたので、電話料の請求が並んでいる。
8:24
「へへぐるま(シトロエン)」がとまっていた。古い町には古い2CVがよく似合う。
8:38
市内観光はやはり中心にあるシュテファン寺院から。
8:38
高さ137メートルの南塔が青い空に突きささる。
8:51
高い天井。ひんやりとした空気。ゴッシック様式の大聖堂である。
地下のカタコンベにはハプスブルク家の歴代皇帝の内臓が納められている。
8:56
ステンドグラスからカラフルな日が差し込む。
9:00
エレベーターで北塔に上がる。鮮やかな模様のドームの屋根の向こうに南塔がそびえる。
9:01
急勾配の屋根。こんない高いところに、どんな足場を組んで建設したのか。
9:07
足下にウィーンの街が広がる。
シュテファン・プラッツ(広場)に、ひずめの音も軽やかに観光馬車が集合してくる。
9:08
東の方向にプラターの観覧車も見えた。映画「第三の男」の舞台である。
9:17
現在も使われているパイプオルガン。この夜もDomeMusikというオルガン・コンサートが予定されていたが、チケットを購入している他の演奏会とダブってしまった。
9:22
寺院の正面で休憩していると、ツアー客がガイドに案内されて次々と入場していく。そして慌しく他の場所へ。
9:29
寺院の外壁に沿ってふた周りほどして見つけた小さな礼拝所。ここでモーツァルトの葬儀が寂しく行われた。
9:30
1791年12月6日にモーツァルトの葬儀は行われたと記されている。しかし、この記念碑ができたのは1931年のことである。
9:34
シュテファン寺院から裏通りへちょっと入ったところにあるフィガロ・ハウス。モーツァルトがここで「フィガロの結婚」を作曲した。絶頂期のころである。
紅白の旗が下がっているところは、文化財の印。市から補助金が出ている。
入場料は4ユーロ(500円ほど)。まあまあか?
9:39
絶筆となった「レクイエム」の自筆譜が展示されている。書き直したところなどないきれいな譜面に感心する。
9:42
ここは観光ルートからはずれているようで、訪れる人は多くない。
9:49
フィガロハウスは2階(こちら風には1階)にある。同じ階段を使用する3階以上には、現在も人が住んでいる。
9:49
フィガロハウスの前で。腹にはパスポートを入れたウエストポーチ、背にはガイドブックなどをいれたデーバッグ姿。
10:05
グラーベン通りに立つペスト記念柱。大流行したペストを制圧した記念に建造された。
10:07
知る人ぞ知る音楽の都の楽譜専門店「ドブリンガー」。建物は改装中で足場が組まれている。有名作品の手書き譜のコピーが「ファクシミリ」の名で売られていた。
10:30
パプスブルグ家の王宮(ホーフブルク)の正面。観光客であふれている。
モーツァルト時代などに使われた古楽器が展示されている古楽器博物館などに入る。もちろん、エリザベート(シシー)の衣装なども飾られている「皇帝の間」にも。
次々に入場券が必要である。
11:20
暑い。ハワイにやってきたのではないかと思うほどのカンカン照り。木陰で休憩する。
12:13
王宮の庭園にある立派なモーツァルト像。前にト音記号をかたどった植え込みがある。
12:42
オペラ座近くのビル地下にある巨大なセルフ・レストラン。とにかくビールがうまい。後でわかったことだが、料金は皿の大きさで決まる。恥も外聞もなく小さな皿に山盛りにしている人もいた。
ハプスブルク家の夏の離宮・シェーンブルン宮殿の絵はがき。
13:55
地下鉄に乗って郊外のシェーンブン宮殿に。夜に開かれるウィーン少年合唱団の演奏会の舞台ができている。
14:01
少年モーツァルトが少女のマリー・アントワネットに求婚したという部屋もあるそうだが、宮殿内部の観光はパスした。
はるかかなたのグロリエッタに向けて炎天下を歩く。
14:12
シェーンブルン宮殿は外壁を改修中。自慢のマリア・テレジア・イエローは一部にのぞいているだけ。
14:19
グロリエッタに向かう木陰の小道には、リスの姿が。餌をもらえるのかと近づいてくる。
14:26
グロリエッタからみたシェーンブルン宮殿。背後にウィーンの街が広がる。
14:36
グロリエッタ内部のカフェーに入る。クーラーがないのに窓は閉まったまま。蒸し風呂のようである。
14:36
最高に暑い一日。
この後、来た道を引き返すのもしゃくで、違う門から出る。やってきたバスの「Zentral(中央)」という行き先表示を見て、どこかの中心に行くと信じて乗り込むと、これがとんでもない郊外だった。
19:16
ホテルから歩いてコンツェルトハウスに向かう途中にベートーベン像があった。
「楽聖」もモーツァルトほどには厚遇されていないようである。
19:19
ウィーン交響楽団の本拠地・コンツェルトハウス。1913年に建てられたもので、外観には世紀末建築の名残が。
インターネットで予約したチケット。ドイツ語の画面しかなく、木野氏に問い合わせのメールをいれてもらうなど、お世話になった。
22:04
ブッフビンダーの弾き振りによるモーツァルトのピアノ協奏曲3曲。ピアノの音がよく音が響くのにびっくり。腕も良いのだろうが、ホールや湿度も影響しているのだろう。
でも、ピアノ協奏曲ばかり3曲も続くと、一日動き回った旅の疲れも出てさすがに眠たくなる。
8:45
バッハウ渓谷の1日ツアーに参加する。集合時間まで間があるので、近くにあるウィーン・フィルの本拠地・ムジークフェライン(楽友協会)へ。
9:45
「Gesellschaft die Musikfreunde」と刻まれた立派な建物。ああ、やはり入ってみたかった!
9:13
こちらはオペラ座の裏側通路。立見席の入り口がある。
9:14
楽屋の入り口から内部をのぞく。
110:07
MyBus(JTB系)の現地ツアー、バッハウ渓谷1日ツアーに参加する。大型バスで1時間ほど走り、メルク修道院へ。
11:08
11世紀に創設されたベネディクト派のメルク修道院は、観光客も多く、ブドウ畑などからの収入もあり、財政的には豊かだという。
11:11
抜けるような青い空が美しい。
11:12
こんなところに絵が描かれている。
一緒になった3歳の女の子は、彫刻を見るたびに怖いといって泣き出す。
11:55
この天井はだまし絵になっている。
11:55
箱庭のようなきれいな町が広がる。そしてドナウと緑の木々。
11:56
11:56
11:58
11:59
12:01
図書室は、9世紀からの写本を含む約10万冊の蔵書をもつ。
13:14
昼食の後、修道院の庭を散歩する。
13:16
13:39
ドナウ下りの船に乗り込む。
13:57
外人観光客は喜んで日を浴びている。
14:00
日差しが強く、サングラスは必需品。
14:12
古城が次々に現れる。
14:28
14:30
高台の城は、ドナウを行き来する船を監視していたのだろう。
14:39
15:13
デュルシュタインの聖堂参事会修道院教会とドナウ川の観光船
15:26
城門をくぐりデュルシュタインの古い町へ。
15:30
ハウプト通りには、しゃれたレストランやかわいいお店が並んでいる。
15:33
ドナウ川を見下ろす。
15:36
民家の玄関にワラ細工が並ぶ。おみやげに欲しかったが。
15:41
ブドウ畑が広がる。その向こうにドナウが流れる。バッハウ渓谷はワインの産地である。
19:09
ウィーン市内のアンカー時計。時間がくると、文字盤が開き、人形が踊るらしいが、見ることはできなかった。
19:32
夕食は、やはりウィーン名物のシュニツェルを。
19:48
薄く延ばした子牛の肉にパン粉をつけて揚げたカツレツ「ウイナーシュニッツェル」。皿からはみだしている。下味がついており、レモンを絞るだけ。カリッツとしていておいしいが、2人で1枚が食べ切れなかった。横の席の小柄なおばさんは、ペロリと1枚を平らげていたが。
20:28
シュニツェルで有名なフィグルミューラーのベーカー・シュトラッセ店。あらかじめメールで予約を入れておいたが、その必要はなかったようだ。
レストランの領収書。
20:56
ライトに照らされた夜のオペラ座。
リンクの路面電車は遅くまで走っている。乗り放題の気安さから、2駅先のホテルまで、何回も利用した。
8:22
ホテルから3分ほどのところにある地下鉄のシュタッド・プラッツ駅。車と同じで、列車の進行方向が逆だ。
8:37
ウィーン市民の台所、ナッシュマルクトを散歩する。野菜が豊富である。何よりも色がきれい。
8:41
真っ赤に熟したトマト。ツルでつながったままである。
8:51
大きなスイカ。果物の種類は日本とあまり変わりない。
8:53
ワインの量り売り。下の箱に積まれている瓶を取り出し、欲しいものを欲しいだけ入れる。
8:54
ヒマワリの花も並ぶ。一面のヒマワリ畑もあった。実を食べたり、油を絞ったりするのだろう。
9:01
屋根の上にタマネギが載ったような分離派会館。1898年に完成した分離派の活動拠点で、地下にはクリムトの壁画「ベートーベン・フリーズ」がある。
残念ながら、まだ開館していなかった。
9:27
路面電車のスッドバーンホフ(南駅)行きに乗ってベルベレーデ宮殿の上宮へ。
9:28
広い庭も手入れが行き届いている。
19・20世紀絵画館(Oberes Belvedere)のチケット。
9:44
絵画館が開くのを待つ。クリムトの有名な「接吻」など分離派の作品が展示されている。
10:57
路面電車でホーフブルクに戻る。リンクの外側にある美術史博物館。自然史博物館向かい合っているが、ここは素通りする。ルーブルとならぶ美術品の宝庫だが、みんな回ってたのでは時間が足りない。
10:58
ハプスブルク家全盛時代の女帝、マリア・テレジアの像。身長は150センチ台だが、体重は100キロほどあったという。
11:28
地下鉄でウィーン西駅へ。ザルツブルクに行く日には早朝に利用するので、ちょと下見しておく。なんてこともない駅である。
11:58
昼食を兼ねてマリア・ヒルファー通りのカフェでちょっとひと休み。ザッハー・トルテは甘かった。
12:19
カフェの名前は「リッター」。ガイドブック推薦の店はすぐに見つかった。
16:15
ホテルでひと休みしたあと、地下鉄と路面電車を乗り継いで中央墓地へ。ここの並木道が「第3の男」の最後の場面の舞台になっているそうである。わたしは映画を見ていない。
16:21
音楽家の墓地が大集合している。
16:23
ベートーベンの墓は正面左手。
16:23
正面中央はモーツァルトの記念碑。墓は別の場所にある。
16:23
正面右手はシューベルト。これが御三家というわけである。
16:24
花が捧げられている。
16:24
ブラアームスはどうしたことか頭をかいている(?)
16:24
ヨハン・シュトラウス2世。
16:25
「軽騎兵」などの行進曲を作曲したスッペ。
16:26
ヴォルフってだれだったか?
16:28
ヨーゼフ・シュトラウス。
16:28
ヨハン・シュトラウス・ファーター。
16:30
32区画というのが、芸術家集団の墓地になっている。
18:58
脂っこい料理にもちょっと飽きたので、日本料理店「天満屋」に。肉じゃがにおにぎりと味噌汁のセットがおいしかった。
もちろん客も店員も全員、日本語で。
21:49
wien/er ORPHEUS Orchester の演奏によるモーツァルトの小曲。それにアリアも。
21:57
狭いフロアーでダンスまで。
22:06
6歳の神童・モーツァルトが演奏会を開いたパルフィー宮殿。フィガロ・ザールと名づけられた同じ部屋で演奏会が行われた。
7:11
目覚まし時計が鳴らず、起きてみると6時15分。あわてて準備し、30分にはホテルで朝食。すぐにチェックアウトして、タクシーでウィーン西駅へ。
あまりの手際のよさに、列車の発車まで1時間近くもある。
ウィーン-ザルツブルクのウィーン国鉄乗車券と1等指定席券。
7:11
西駅の出発案内。ミュンヘン行きなどの国際列車が発着する。
7:13
予約したミュンヘン行き特急「EC68」には「モーツァルト号」の愛称がついている。
7:23
ホームにいてもアナウンスはない。静かに入ってきた列車が、定刻には静かに発車してゆく。
9:01
食堂車でコーヒーを飲む。ミルクが2つもついてくる。
10:07
1等を奮発したので広々としたコンパートメントである。6人掛けだが、ザルツブルクまではだれも乗ってこなかった。
11:01
ウィーンからリンツを経由して3時間。ザルツブルクに着いた。
11:02
ザルツブルクのホームは観光客であふれている。
13:04
ホテルに荷物を預け、日本語メニューがあったレストランで昼飯。ミラベル庭園は、あいにく雨が降っている。
この階段と門は「ドレミの歌」の最後のシーンで登場する。
13:07
ミラベル庭園の向こうの山上にホーエンザルツブルク城が霞んでいる。
13:10
ここは映画「サウンド・オブ・ミュージック」でマリア先生が子どもたちと「ドレミの歌」を歌う場面で登場する。
13:13
ミラベル・ブルンネン(ミラベルの泉)。
13:15
すれ違う観光客はアジア系も多い。韓国人、中国人の方が目に付く。
この2つの像も「ドレミの歌」に登場している。
13:19
モーツァルテーム(音楽院)の正門。だれでも簡単に入れる??
13:23
教室から練習に励むソプラノが聞こえてくる。
13:29
玄関の寄付者プレートには、アスキー創業者の西和彦夫妻の金文字が。
13:33
「へへ印」の前にかわいいぬいぐるみ。
13:45
ミラベル宮殿。中央の窓から大司教の愛人、サロメと思われる肖像画が見える。
13:45
ザンクト・アンドレー協会。ここの左手がツアーの集合場所になっている。
14:23
現地ツアー会社のザルツカンマーグート日本語半日観光ツアーに加わる。
14:23
ザルツカンマーグート地方には大小の湖がある。
14:24
14:41
ザンクト・ギルゲンの町。正面は市庁舎。
14:41
市庁舎前に立つモーツァルトの像。バイオリンを弾いている。
14:43
「カフェ・ナンネル」。ナンネルはモーツァルトの姉の名前である。
14:46
14:46
モーツァルトの母親と姉のナンネルのレリーフ。
14:50
モーツァルトの母親が生まれた家。
ヴォルフガング湖の遊覧船のチケット。
14:59
観光船に乗り込み、ザンクト・ヴォルフガンクまで行く。
15:36
ヴォフルガンク湖を観光船が進む。水上スキーを楽しむ人もいる。湖岸にには立派お屋敷が。
15:46
15:48
ザンクト・ヴォルフガングが近づく。
左手の山がシャーフベルク。映画「サウンド・オブミュージジック」にも出てくる蒸気機関車のシャーフベルク登山鉄道で登る。
15:58
ザンクト・ヴォルフガングの路地。といいてもこれが中央通り。
16:01
ここも観光客であふれている。
16:02
ベナツキーのオペレッタの「白馬亭にて」で有名な、といわれても知らないが・・・。ホテル・イム・ヴァイセン・レッスル。
17:05
「竜の顔」に見えるとガイド氏。
17:09
モントゼーの教会は18世紀のバロック様式。
17:10
映画「サウンド・オブ・ミュージック」でマリアとトラップ大佐が結婚式をあげるシーンに登場する。
立派な祭壇があるが、内部は意外と狭かった。
この祭壇の前でマリアとトラップ大佐の挙式が行われる。
7:01
「カーン、カーン」と教会の鐘があちこちから鳴り響く。
7:04
モーツァルトがウィーンに旅立つまで住んだアパートが残っている。
7:05
建物内部はモーツァルト関連の記念館になっている。
7:07
ザルツァハー川沿いにある
カラヤンが生まれた家。
7:08
ヘルベルト・フォン・カラヤンは4年後には生誕100年になる。ザルツブルク音楽祭もにぎやかになるだろう。またやってきたい。
7:08
庭には指揮棒を振るカラヤンの像が立っている。
7:23
ザルツブルクの目抜き通り、ゲトライデ・ガッセには、意匠をこらした看板が続いている。わたしはずっと上を向いて歩き、奥さま屋さん、たぶん!
7:23
こちらはブーツ屋?
7:25
ここはビアガーデンのシュテルンブロイ。
7:26
ここは鍵屋でしょうか。
下はアートのガラス屋。
7:26
「NORDSEE」は、ウィーンで最初の夜にお世話になった魚料理のチェーンショップ。あちこちにあるが、ここのは看板もしゃれている。
7:27
どかで見たような「M」だと思ったら、やはりマクドナルドである。
7:27
これは洋品店。
7:28
装飾品が素晴らしいブランドである。
7:30
モーツァルトが生まれた家。内部は博物館になっている。
7:31
ここの4階でモーツァルトは生まれた。
7:31
1756年1月27日に、モーツァルトはここで生まれた。
7:38
卵で作ったクリスマス飾り。年中、売っている。
7:42
ここはクリスマス用品店。
7:46
モーツァルト広場に立つモーツァルト。
7:46
レジデンス。司祭の館である。
10:09
岩をくりぬいた祝祭劇場のホール・フェルゼンライトシューレ。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」のコンテスト場面で使用された。
10:11
あこがれのザルツブルク音楽祭祝祭劇場の正面。
ジョルジュ・プルートル指揮、ウィーンフィルハーモニーの演奏会パンフレット
インターネットで購入したチケットは110ユーロ。この演奏会にあわせて旅の日程を組んだ。
ザルツブルクのバスなど交通機関の1日乗り放題券が6枚もついてきた。
10:13
みやげ物店の看板。なんでも珍しい。
10:24
だんだんと入場客が集まってくる。
10:25
2階の窓から見下ろす。劇場前の道路がロビーである。
10:38
豪華に装ったひとが多い。たいていが夫婦連れである。
正面にホーエンザルツブルク城。
10:43
天気も回復して、気持ちがよい。
10:45
わたしもきょうはネクタイ着用。
11:29
タンホイザー序曲が終わった。拍手の渦のなか、シャッターを押す。この瞬間だけは、カメラ撮影が黙認されている。
11:29
みんな立ち上がっての拍手の渦である。
11:38
白ワインを飲む。大勢の列に混じってワインを注文、支払いを済ませるくらいには慣れた。
11:39
休憩時間も長く、ロビーはゆったりとしている。
11:39
ワインを片手に満足の表情。これをやってみたかった。
11:45
2300人も収容する大きなホールである。
12:51
弦が限りなく美しい。抑制の効いた管もさすが。ベルリオーズの「幻想交響曲」に固唾をのんだ。
翌日の地元紙には演奏家の記事が掲載されている。
13:08
ホールの前に新車発表会のようにズラリと並んだアウディ。スポンサーが招待客のために準備したものらしい。
14:03
ホテルに戻って着替え、もう一度町へ出る。
ミラベル庭園のペガサスの噴水。
14:05
天候が回復して、ミラベル庭園が一段と美しい。
14:06
ホーエンザルツブルク城がはっきりと見える。
14:08
14:15
ザルツァッハー川にかかるモーツァルト・スティック(小橋)の上から旧市街を眺める。
4:16
ザルツァッハー川巡りの船が停まる。
川辺には屋台の列ができている。
14:26
「昼食は簡単でいい」と、日本でもあまりはいることがないマクドナルドへ。さすが、メニューは世界統一規格である。
14:29
ハンバーガーは紙に包んでくれる日本とは違って紙箱に入っていたが、味は同じ。
14:47
ゲトライデ・ガッセに観光客があふれる。
15:03
ケーブルカーでホーエンザルツブルク城に上がる。
15:06
ホーエン・ザルツブルク城から見下ろす。手前が旧市街。ザルツァッハー川の向こうにミラベル宮殿が。
15:11
中央は大聖堂(ドーム)。
15:11
「ここから写真を撮れば最高です」と、ツアー客を案内している日本語ガイドの説明が聞こえる。その教えに従ったらこの通り。
15:13
大砲が城壁から街を見下ろしている。
15:20
赤い塔がノンベルク修道院。「サウンド・オブ・ミュージック」のマリアが育ったところである。
15:36
ノンベルク修道院までやってくる人は少ない。「サウンド・オブ・ミュージック」はジュリー・アンドリュース主演の米国映画で、ヨーロッパではあまり馴染みがないためかもしれない。
15:39
ノンベルク修道院の聖堂。
映画も尼僧院のシーンはにここで撮影されている。
15:42
ローソクを献灯する。
16:02
こちらは、「サウンド・オブ・ミュージック」でゲシュタポに追われるトラップ一家が隠れるザンクト・ペーター教会の墓地。
実際には墓石の後ろに隠れるほどのスペースはない。映画はセットで撮影されたのだろう。
16:03
花で飾られた墓地。
背後にカタコンベの入り口が見える。
16:09
岩山をくりぬいたカタコンベの窓から見るグロッケンシュピール(鐘楼)。
16:14
まだ大聖堂にも入っていないが、「ちょっと疲れた。パスしようか」。
16:53
フェルゼンライトシューレはメンヒスベルク山の岩壁をくりぬいて造られている。このわきのカフェーでひと休みする。
20:23
さすがに疲れて、前日と同じだがホテルのレストランですませる。「わかりきったものを食べよう」と注文したウインナーソーセージはトグロを巻いている。ジャガイモは合格だが、ザウワークラウトは酸っぱいこと。
8:02
最後の朝になった。
朝食はどちらのホテルもアメリカンスタイルで、ジュース、コーヒーにパン、野菜、ベーコン、ハム、チーズに卵と食べ放題。おいしかった。
8:02
仕上げにケーキを食べる。
08:02
ビール会社直営のホテル・レストランで庭はビアガーデンになっている。天気がよければ、ここで食事ができたのに。
8:09
ホテル・スティーグルブロイ。
ここの看板もしゃれている。
8:11
ウィーンのホテルよりは1ランク下だったが、まあ満足。
8:34
時間があるので、ホテルの周りを散歩する。
真っ赤な2CVがかわいい。
8:35
初めて見たピカソ。わがクサラのバリエーションである。側面は4枚窓。これもかわいい。
8:36
こちらはZX。
ベンツやワーゲン、オペルといったドイツ車ほどではないが、フランス車も結構走っている。プジョー、ルノーには数で負けるが、シトロエンもそこそこに。
8:36
C3も街の雰囲気にぴったり調和して小粋である。
8:44
BXも健在。これも赤というのが憎い。
9:01
あっという間の1週間だった。
10:46
旅は終わろうとしている。2晩お世話になったホテルで荷物をまとめる。
ザルツブルク音楽祭の開催中はハイシーズンで、ウィーンより部屋は狭いのに、料金は高かった。
11:04
ザルツブルクのモーツァルト空港で搭乗機を待つ。客はまばら。
この街では、あちこちで「モーツァルト」に出会った。
11:47
ウィーン行きだから幹線かと思っていたら、チロリアン航空機(オーストリア航空の子会社)はなんとプロペラ機。
こんな小さな飛行機でも、前から数列はビジネスクラスで、食事が出ていた。シートは同じだったが。
11:47
のんびりとした搭乗風景。
11:50
5段ほどのタラップを上る。
右肩のバッグには、免税品のおみやげが。
ザルツブルク-ウィーン-関西空港のチケット。
12:04
ザルツブルク上空から見納め。
中央上に見える小山のから手前に町が広がっている。中央に流れるのははザルツァッハー川。
12:05
Aufwiedersehn!
使い残したユーロ紙幣1枚とコイン。
コインは次回、空港でのチップに使うことにしよう。といっても、いつのことだかわからないが…。
熊野九十九王子を往く 1
< (1) 窪津王子-坂口王子ー郡戸王子-上野王子 (04/07/03)
晴れ
地下鉄天満橋-「窪津王子」-八軒家船着場跡-御祓筋-南大江公園-「坂口王子」-榎木大明神-安堂寺町通り-上汐町筋-高津神社-「郡戸王子」-生国魂神社-上之宮-「上野王子」-四天王寺-熊野権現遥拝石-超願寺(竹本義太夫の墓)-JR天王寺
京を出発した熊野詣は、下鳥羽から舟で淀川を下り、渡辺の津といわれたこのあたりで上陸する。後に八軒家と呼ばれるようになった船着場である。
京阪天満橋駅の南筋向いにある「永田屋昆布本店」の軒下に「八軒屋舩着場の跡」の碑がある。
「この地は江戸時代には八軒家と称し淀川を上り下りの三十石船の発着場として さらに古くは渡辺といい紀州熊野詣での旅人の上陸地として栄えた また大江山の鬼を退治したといわれる渡辺綱はこの地を支配した摂津源氏一族の出身であり『地獄門』で知られる遠藤盛遠が袈裟御前を見初めたのもここに架けられた渡辺橋の渡りぞめの時のことと伝える 楠正行がこの橋からなだれ落ちる敵兵を救いあげ衣料を与えて国へ帰してやったという美談は明治初年わが国が万国赤十字に加盟のとき伝えられて感銘を与えた」
昭和四十年五月 牧村史陽識
(いずれも永田屋昆布本店配布のパンフレット「八軒家の今昔」より)
坐摩(いかすり)神社行宮。ここに熊野九十九王子の第一王子、窪津王子(または渡辺王子)があったという。
坐摩神社は、地下鉄本町近くにある。「御由緒略記」によると「神宮皇后が新羅よりご帰還のおり、淀川南岸の大江、田蓑橋の渡辺の地に奉祀が始まりとされています」とある。窪津王子については触れられていない。
御祓筋を南へ歩き始める。「アリの熊野詣」の出発である。
しかし、興味をひくものはなにもない、ただただ暑いばかりのビルの谷間である。
御祓筋の北端にある「熊野かいどう」の碑。
「熊野街道は…上町台地の西側 脊梁にあたる御祓筋を通行したものと考えられる…」
御祓筋を1.7キロほど歩いた右手に南大江公園がある。ここの南西角にある狐坂大明神。
ここが坂口王子があったと伝えれれる朝日神明社の跡地である。
「朝日神明社跡」の碑。
「朝日神明社は、天慶年間(938-947)に平貞盛が創建したという。…熊野王子のひとつの坂口王子の伝承地である…」
御祓筋を上ってきて細くなった突き当り、朝日神明社旧跡の南に樹齢600年と推定される榎(実際は槐=えんじゅ=だという)がそびえている。根元に榎木大明神の祠が置かれている。
古代からのランドマークだったのだろう。
榎木大明神の南側に「直木賞」で知られる直子三十五の文学碑がある。直木は明治24年(1891)にこのあたりで生まれた。
「きっとなせる市蔵」
「なせる」
大久保市蔵はそういってうなずくと吉之助の手を握った
軽輩のすべてはおなじ心で磯浜を桜島を眺めていた
直木三十五「南国太平記」
これは新聞に掲載された薩摩藩のお家騒動を題材にした小説だそうだが、わたしは読んでいない。
御祓筋を左折して安堂寺通りにはいる。古い家並みとなる。鋼製品を扱う商店が目につく。
真新しい「熊野街道」の石碑が立っている。大阪府、大阪市、大阪市教育委員会が競うように整備を進めている。
空堀(からほり)商店街の東端をかすめるように通り過ぎる。
「ろまん街道」とネーミングしているこの商店街は、古い町屋をそのまま店舗にしたりのユニークな町おこしで注目スポットになっている。
上汐町筋を南下する。町の雰囲気がすっかり変わる。
古い看板。南区は中央区に変わったが、「上汐1」は同じ。
一本、横の道に入ったために、偶然にも前を通ったサントリーの「樽ものがたり」家具展示場。
1カ月ほど前にジュンク堂に積まれていた宣伝パンフで、オープンしたことは知っていた。こんなところにあるとは。
飛騨・清見村のオークビレッジは、かつて、その樽材から家具を作っていた。今も、オークヒルズの食堂では、樽材で作ったピュアモルト・スピーカー(スピーカーはパイオニア製で、ボックスが樽材)が心地より音楽を響かせている。
わが家のリビングのテーブルが買い替えの時期にきている。オークビレッジ製が第一候補だが、こちらも手ごろな価格で心が揺らぐ。
長堀通りを通り越してから、「郡戸王子」は高津宮にあったのだ気づき、暑い道を引き返す。
といっても、神社境内にそれらしき碑などはない。
生国魂神社は来たことがあるので、横目に通り過ぎる。
またも遠回りしてたどり着いた「上宮社跡」。マンションの玄関にあった。
ここが四天王寺を守る7社の一つである上之宮(上野王子社)。
巨人・元木選手の母校・上之宮高校が、目の前にある。アテネ五輪出場OB選手の名前が掲げられている。
四天王寺四天王寺の西門。
土曜日だったが、四天王寺高校の女子生徒が下校してくる。
四天王寺の南門の「熊野権現遥拝石所」。ここから南に一直線に熊野への道が延びる。
四天王寺の門についている「転法輪(てんほうりん)」。
「法輪は、お釈迦さまの教えが他に転じて伝わるのを輪にたとえたもので、仏教の象徴です。
合掌して、『自浄其意』(じじょうこい=心が清浄となりますように)と唱えて軽く右にお回しください。」
四天王寺の南門で出て、まっすぐ行くとすぐに「超願寺」がある。
ここに浄瑠璃の中興・竹本義太夫の墓がある。
堀越神社を谷町筋の向こうにみる。ここに窪津王子が合祀されているそうだが、あまりの暑さに、横目で素通りする。
今回はここまで。
琵琶湖周歩の旅 その14 坂本ー瀬田唐橋
(14) 比叡山坂本-瀬田唐橋 (04/05/22)
(水無瀬-JR大山崎-京都-JR比叡山坂本)-穴太-志賀-近江神宮-三井寺-長等-三橋節子美術館-浜大津-琵琶湖文化館-なぎさプロムナード-膳所公園-粟津の晴嵐の碑-瀬田唐橋(ゴール! ゴール!! ゴー~ル!!!)-JR石山-JR京都-水無瀬
天気=うす曇り
距離=約16キロ 総歩数=32,676歩
9:17
にぎやかな会話の輪に加わる。いつもはひとり旅だったが…。
9:44
国道を避けて日吉神社の参道へ。
9:53
表通りを避けて裏道に迷い込むと、懐かしい「仁丹」のマークがかかっていた。
9:55
日吉東照宮の参道。坂本の町は、いたるところに神社仏閣があった。
10:08
「右 大津道」「左 日吉神社」
道端の碑は、新しいもののようだった。
10:10
瑞慶山盛安寺。
由緒はわからなかったが、随分と立派な寺だった。
10:14
高穴穂(あのう)神社に参る。
地名は穴太(あのう)。戦国時代に活躍した近江近郊の石積み(穴太積み)職人の集団、穴太衆の地元だ。
10:43
京阪石坂(石山-坂本)線にそって歩く。
この鉄道路線も京阪電鉄の合理化でいずれは消える運命にある。
10:44
「この花の名前知ってる?」
「シラン」
10:59
大津京を造営した天智天皇を祀る近江神宮。
6月10日の「時の記念日」には、天智天皇が日本で初めて漏刻(ろうこく、水時計)を作った故事にちなんで「漏刻祭」が行われると案内にあった。
11:08
史跡近江大津宮錦織(にしこうり)遺跡。
天智天皇が築いた大津宮の遺跡との見方が強くなっている。
11:16
大津市役所前の道には、大津絵の代表的な絵が。
11:33
ノンストップで三井寺まで歩いた。
近江八景「三井晩鐘」で知られる高い鐘楼がある。
11:46
「この花の名前知ってる?」
「アヤメ?」「ショウブ??」「それともカキツバタ???」
11:53
第一疎水。琵琶湖の水が向こうから、足元のトンネルに流れ込んでいる。
この水が山科-蹴上と流れ、京都の飲料水となる。
12:01
長等公園の一角にある「三橋節子美術館」
12:06
三橋節子の生涯と作品を描いた「湖の伝説」(梅原猛著)は20年以上前に読んだ。その作品が展示されている。
まずはビデオでその生涯を振り返る。
京都の美術館で回顧展が開催中で、展示は少ないのではと心配したが、展示室には代表作の「花折峠」と「三井の晩鐘」が展示されていた。
〒520-0035 大津氏小関町1-1
長等創作展示室 三橋節子美術館
電話 077-523-5101
入場料 210円
12:42
「この花の名前知ってる?」
「知らん」
12:45
鮒寿司で有名な阪本屋。
琵琶湖のフナはブラックバスなどの外来魚の攻勢に敗れ、すっかり獲れなくなった。おかげで鮒寿司も、あまりに高価。素通りする。
12:54
浜大津の大津港。ここから竹生島への観光船が出発する。
13:03
大津生まれの花登匡の顕彰碑があった。
「泣くは人生 笑いは修業 勝つは根性」
「やりくりアパート」「番頭はんと丁稚どん」が出世作と刻まれている。
13:05
「お腹、減ったな」と話しながらなぎさプロムナードの整備された湖岸を歩く。
13:09
明智光秀の弟、明智左馬之助が天正10年、兄光秀の死を知り、大津から坂本へ湖上を馬でとってかえしたという「明智左馬之助の湖水渡り」の碑があった。
13:12
琵琶湖ホール前の案内板。
女房が代表をしている女声合唱団「コール マーテル」の指導者、K氏が出演するオペラ「ジプシー男爵」のポスターが。もちろん女房はチケットを買っている。
14:21
膳所公園まで来た。
公園には四高桜が移植されていた。
14:35
{ゴール!!」
わたしたちの本当のゴールも目の前に迫ってきた。
14:42
近江八景「粟津の晴嵐」の碑。
14:48
目の前の流れが琵琶湖から瀬田川に変わる。
14:52
1年前の5月24日に出発した瀬田唐橋が目の前に。
230キロ、よくぞ歩いた。
14:58
唐橋の中ノ島には「「日本の道百選」の碑が立っていた。
15:02
左はゴールししたふたり。
右は1年前に出発したときのふたり。
さて、両方の写真で違っているところは何カ所あるでしょうか?
15:03
わたしも、満足感を腹(?)に記念撮影。
15:08
一周の途中で何度も見かけた「瀬田から右回り○○lキロ」「左周り○○キロ」の標識の「どちらに回っても230キロ」があるはずだと探すが、残念ながら見つからなかった。
これは、たぶん大阪港からの距離を示す標識。
15:10
出発-ゴールの日本三名橋「瀬田の唐橋」
椅子をつくる ~飛騨・清見村、Oak Village(オークビレッジ)にて
GWの交通渋滞を懸念して、早朝に出発した。ところが、名神-東海・北陸道ともに混雑はなく、9時半には早くもひるがの高原SAに。駐車場でひと眠りしたあと、途中で昼食に高山ラーメンを食べ、集合時間の午後1時前にオークビレッジに到着した。
木工セミナーが開かれた「森の自然学校」。3泊4日コースが基本だが、わたしは1日少ない2泊3日で参加した。参加費(46,000円)には、初日の夕食から最終日の昼食までの食費と宿泊代、受講料、保険料が含まれている。
時間のかげんで希望していた「角材と板から作るペザントチェア」は断念。キット(16,800円)を製作することに。
座板、背板、脚4本、くさび6個で構成されている。
用意してきた設計図と現物の板を合わせる。細かなデザインを相談したあと、墨付けにかかる。
ハンドソーで墨にそって部材を切り取る。
最初に刃が入る瞬間は、やはり緊張する。もう後戻りはできない。
座面にくぼみをつけるため、丸カンナで削る。
材料は栓(せん)の木。、木目が均等に通っており、あまり堅くないので気持ちよく削ることができる。
旋盤で丸棒を削る参加者。角材が見る見る丸くなり、思いの太さに変化してゆく。
実はこれを経験してみたかったのだが…。
夕食はオークヒルズの「森のレストラン」で。この日のメニューは、ワカサギのから揚げとホタルイカののったサラダ、豚のカツレツ、スープ。これに生ビールを追加して大満足。
森の自然学校代表の稲本裕氏(オークビレッジを主宰する稲本正氏の実弟)もテーブルについて、木工談義がつきない。
宿泊は「どんぐり邸」で。最初の夜は4人相部屋だった。
GWの前半に開かれた「漆塗りセミナー」から引き続き参加していた2人は、さすがに1日早く終了して帰宅した。
昨秋に女房と泊まった「くるみ館」ほどきれいではなかったが、一日の作業疲れからすぐに寝込んでしまった。
2日目の作業が始まった。
通信木工講座「木工スクール匠流」の第三代総師範、永田康夫さん(右端)から説明をうける参加者。
粉だらけになって木を削る。
持参したサンダーで荒削りしたあとはサンドペーパーで。削っては表面を触り、ただただ無心の時間が過ぎてゆく。、
座面の裏側から4本の脚を叩き込む。
座面の表側。脚の中央に溝を切っておき、そこにくさびを打ち込む。これで脚が抜けなくなる。
4本の脚で自立した。椅子らしくなってくる。
体にあわせて脚の高さを調節する。
わたしの椅子は座面までの高さを43センチにして、のこぎりで切り落とした。
昼食は沖縄風タコライス。
ご飯の上に、千切りレタス、味がついたひき肉、さいの目きりのトマト、チーズをのせればできあがり。ニラいりのスープもおいしい。
あっさりとしたデザインのポイントとして背板への象嵌(ぞうがん)に挑戦する。
トリマーで幅7ミリ、深さ5ミリほどの溝を掘る。色の濃い木材を溝と同じ幅に切って、埋め込む。
かんなで埋め込んだ木を削り、表面の凹凸を消す。
3日目。
オークビビレッジのショールームや森の博物館は、GW中とあって訪れる人が絶えない。
前夜、夕食後にもう一度作業場にやってきて彫刻刀で彫ったサイン。
来年もやってきたいという思いを込めて「’04」といれる。
背板を座板に差し込み、くさびでとめた。
浸透性木材保護着色材をしみこませ、布でふき取る。
リボスの「クノス」という自然健康塗料だ。
ニスやペイントと違い、刷毛目を気にしなくてもいい。
完成した椅子を前に、思わず表情がほころぶ。
オークビレッジ http://www.oakv.co.jp/
オークヒルズ http://www.oaknature.co.jp/
〒506-0101 岐阜県大野郡清見村牧ケ洞1025-2
木工セミナーでご一緒した西村寅雄さんから送られてきた写真集です。西村さんは茨木市在住で、わたしの車で一緒に帰宅しました。話しているうちに京都の下鴨中-洛北高の先輩ということがわかりました。
熊野九十九王子を往く 京洛の熊野社
京洛の熊野社
熊野若王子神社 (2004/04/16)
下鴨からの帰宅途中に寄る。雨が降っていたので、車を乗り付けてお参りした。
熊野詣にあたっては、この滝で浄めを行ってから出発したと伝わる。
熊野詣や伊勢参宮のとき、禊の木としてして、罪けがれをはらい清めるお守りとして用いられた。
「この梛守は、受験・結婚・その他すべての苦難をナギはらうお守りです」(パンフレットより)
京都市左京区若王子町2
東山三十六峰のふもと、哲学の道の起点にある。
熊野神社 (2004/05/30)
京都市左京区聖護院山王町43
東山(東大路)通と丸太町の交差点、バス停は「熊野神社」の西北角にある。
三本脚のこの烏は、神武天皇東征のとき、熊野灘の那智海岸に上陸した神武天皇を熊野から大和に入る険しい道を先導した鳥という。
日本サッカー協会のシンボルマークにもなっている。
聖護院の森は「八ツ橋発祥の地」といわれ、境内にはその碑と「八ツ橋中興の祖」西尾為治(1879-1962)の銅像がある。
東山通にめんした北側には「八ツ橋発祥の家」と大きな提灯にかいた西尾家八ツ橋の店が。近くには、西尾家と聖護院八ツ橋の本家が道を隔てて向かい合っている。
「熊野牛王宝印」の6文字が、「烏点(うてん)」で記されている。烏点とは、熊野神社の神使である八咫烏を図様化し、その間に宝珠をデザインしたもの。熊野本宮は92羽、熊野新宮は48羽、熊野那智は72羽で、ここは新宮の故をもって48羽が描かれている。
熊野牛王は祈願神として用い、願意を記して捧げることで、その願いが神に届くとされている。
新熊野神社 (2004/05/30)
京都市東山区今熊野椥ノ森町42
熊野神社から東山通を南下、祇園-清水坂-智積院を横目にJR東海道線を越えた右側にある。バス停や地名は「今熊野」。
後白河法皇が平清盛に命じて紀州熊野の土砂材木等をもって社殿を造営させて聖地熊野をこの地に再現させた。この御土は往時をしのび、「熊野三山」から奉納されたもの、とある。
琵琶湖周歩の旅 その13 和邇ー坂本
(13) 和邇-坂本 (04/04/03)
天気=うす曇り
距離=約11キロ 総歩数=25,456歩
10:14
今回のスタートは和邇。京都から湖西線の各駅停車でやってくる。
10:22
花見に行っても、どこも人でいっぱいだろうからと琵琶湖へ。
「琵琶湖周歩の旅」も終盤にして、初めて女房と一緒に歩く。
10:23
道端でニラが白い花を咲かせている。
10:27
だれもいない和邇南浜から北方を振り返る。比良が背中になっている。
10:43
懐かしい看板がかかっている。新聞販売店でもないのに、どうして?
10:47
シイタケが分厚く育っている。おいしそう。
10:53
琵琶湖大橋が大きくなってくる。
10:59
壁に大きく「社団法人 日本鳩レース協会/王将競翔連合」の文字。そんな団体があるんだ!
右側の櫓にハトはレースを終えた帰ってくるのだろうか。
11:19
国道沿いのJR小野を通り過ぎる。
11:21
遂に出発の大津市に戻ってきた。
11:37
.真野川を渡る。桜が咲き、親子が釣りを楽しんでいる。
11:39
琵琶湖大橋西岸の琵琶湖タワー。大きな観覧車が運転していないのは知っていたが、その前のドライブインまで休業してしまったとは。
すぐ横のコンビニで弁当と缶ビールを仕入れる。
12:30
出島(でけじま)灯台。今堅田の先端に明治8年(1875)立てられた、全国でも類をみない木製の灯台。
風をさけて湖岸で弁当を開ける。
12:44
堅田の「浜通り商店街」と看板にあるが、商店はどこにある?
人通りもない静かに湖岸の道。
12:49
堅田港から対岸を見る。1年ほど前にその前を歩いた佐川急便の体育館などが見える。
12:53
堅田の浮御堂。参拝する善男善女の列が続いている。
正面に回ると拝観料300円。手だけ合わせてご遠慮申し上げる。
13:11
天神川の土手にはユキヤナギが真っ白に。その先に黄色いレンギョウ。対岸には桜とカラフルである。
13:23
「ボンジュール神戸」の移動パン屋の屋台が出ている。ここのメロンパンは皮がパリッと焼きあがっており、結構イケル。1個120円ナリ。
14:09
雄琴の歓楽街を横目に。
風営法施行以降、ネオンの瞬きも随分おとなしくなった。それでも昼間から客引きのニイちゃんもたっていて、それなりに。
14:52
JR雄琴までのはずが、通り過ぎてひと駅先の比叡山坂本まで歩いてしまう。
これでテンパイ。あと1回でゴールになる。
琵琶湖周歩の旅 その12 高島ー和邇
(12) 近江高島-和邇 (04/03/27)
(水無瀬-JR山崎-JR近江高島)-乙女ガ池-鵜川四十八体石仏群-白鬚神社-北小松水泳場-近江舞子水泳場-松の浦水泳場-JR志賀-JR蓬莱-JR和邇(-JR山崎-水無瀬)
天気=晴れ
距離=20.5キロ 総歩数=35,222歩
8:46
携帯の充電が切れかけていた。阪急水無瀬駅前のコンビニでペットボトルのお茶とともに乾電池を買い、ホームで充電器をセットする。
9:41
湖西線の蓬莱付近から比良を見上げる。蓬莱山の頂上付近にはまだ白い雪が残っている。
9:58
自宅から1時間ちょっとでスタートの近江高島に着いた。アクセスがずいぶんと楽になった。
10:03
大溝城跡。織田信長の甥、織田信澄が対岸の安土城とほぼ同年代に築いた城の石垣が残っている。
10:07
乙女ガ池。大溝城は内湖の乙女ガ池を外堀にしていた。いまは整備されて遊歩デッキができている。
10:10
乙女ガ池は壬申の乱以来の古戦場として知られるそうだ。
「大船の香取の海に碇をおろし いかなる人か思わざらむ」(万葉集)
10:17
湖岸にでる。春の陽を浴びて、湖面がきらきらと光っている。
10:30
鵜川四十八躰仏。天文22年(1553)にこの地の守護職で観音寺城主の六角義賢が、亡母の追善のため48体の阿弥陀を造ったと伝えられる。今は33体が穏やかな表情をたたえている。
10:37
湖上に立つ白鬚神社の大鳥居が見えてくる。
10:41
「2拝、2拍、1拝」。社殿に向かって形どおりに参拝する。
10:46
重要文化財の社殿から、朱塗りの鳥居を見る。
10:56
あまり変化のない湖岸を国道に沿って歩く。正面には比良の山並みが連なる。
11:14
「うかわファームマート」に立ち寄る。採れたての野菜などが並ぶ。昼食用に3色弁当(たけのこご飯、細まきずし、ちらしずし」(450円)をゲット。フキノトウ(200円)、えびマメ(200円)、イサダの佃煮(250円)をみやげにする。
11:41
北小松の港。のんびりとバスフィッシングを楽しむ人が。
かつて、わたしもここで息子と釣り糸を垂れたことがある。
11:57
道端の桜。まだつぼみは堅い。
12:39
近江舞子水泳場で弁当を食べる。
若い女性3人がやってきて、湖面に向かって手を合わせ、声をそろえて「般若心経」を唱和し始める。
12:41
松は緑に砂白き、雄松が浜の乙女子は・・・(琵琶湖周航の歌)
夏になれば人であふれる近江舞子も、季節外れとあって静か。
13:06
北比良の静かな集落を縫うように抜ける。
13:07
ハッサクが収穫されないままに大きな実をつけている。
13:46
松の浦水泳場まできた。ちょっと疲れた。木陰で休んでいると、水上スキーが目の前を横切った。
13:57
左に湖岸、右に湖西線の高架という単調な風景のなかを歩き続ける。志賀駅も通りすぎる。l
14:55
歩きつづけて和邇までやってきた。今回はここまで。
駅前スーパーの食堂にはいり、生ビールでひとり乾杯。
琵琶湖周歩の旅 その11 今津ー高島
(11) 今津-高島 (04/02/28)
(水無瀬-JR山崎-JR近江今津)-今津港-二つ石-水鳥観察センター-新旭浜園地-しんあさひ風車村-安曇川-近江白浜-萩の浜-(JR近江高島-水無瀬)
天気=曇り
総距離=17キロ 総歩数=28556歩
9:08
JR京都から湖西線の新快速に乗る。「スキー湖西レジャー号」と名がついているが、スキー客なんていない。スノーシューを担いだおじさんやら、キャンプに行く一家はいたが・・・。
10:09
JR近江今津からさあ出発。
「琵琶湖周航の歌記念館」の前の歩道には歌詞を刻んだプレートが。「われは湖の子 さすらいの・・・」
10:10
竹生島に渡る観光船は、3月まで冬季運休中。桟橋は閉じられたままである。
10:23
鳥居の先に置かれた二つの岩とほぼ同じ岩が沖合い100メートルの湖中にもあり、渇水になると姿を現すことから、毎年ここで雨乞いをするのだという。
10:26
竹生島を間近に見る遥拝所跡。曇り空のこの日は、竹生島は霞んでいる
10:29
木津港跡に立つ常夜灯。昔はここから西国第30番札所のある竹生島への船がでていたという。
10:37
新旭町の水鳥観察センター。
10:39
湖上一面に黒い「点」が広がる。水鳥が羽を休めている
10:45
湖岸に伸びる新しい道。桜が植樹されていて「さくら街道」の名が
11:03
芦を刈ったあとの下草を焼いている。あちこちから煙が
11:09
新旭浜園地の木道を行く
11:38
おばあちゃんが差し出すえさを求めて首をつきだすガチョウ
11:38
道の駅・しんあさひ風車村。その名の通り、大きな風車が立っている
11:49
定規で引いたようなまっすぐな道。車はほとんど走ってこない
12:02
安曇川町にはいったことろで出会ったおなじみの標識。ゴールまであと60キロ。
12:14
対向車線を走ってきたベンツがクラクションを鳴らして止まった。バックして降りてきたのは小学校時代の友達、田端くんだった。あまりの偶然にお互いにびっくり。
12:31
安曇川を渡る。左に見えるのが「びわこ子どもの国」。ガイドにはレストランがあると書いてあったが、営業してそうもない。ああ、お腹が空いてきた
12:35
あまり変化のない湖岸をひたすら歩く。かなたに比良の山並みが
13:21
人ひとりいない近江白浜水泳場
13:29
枯れて枝が折れた「四高桜」の老木
13:41
「四高桜」の碑。昭和16年、旧制第四高等学校(金沢、父親の母校)漕艇部の11人がボート練習中に突風にあって遭難死したのを悼んで1000本の桜が植えられた
13:57
近江高島駅前には大きなガリバーの像が。山手にガリバー青少年旅行村がある