「ブエン・カミーノ!」と声をかけたくなるような光景でした。のどかな秋晴れの一日でした。
歩いて伊勢参りのその6は、天理から山の辺の道を桜井まで歩きました。16キロほどありました。ほぼ平たん路とはいえ、久しぶりのロングウォークとなりました。
スペインのサンティアゴ巡礼路を歩いているかのようでした。前にも後ろもハイカーが。そしてすれ違う人も。歩いていることの楽しさがあふれていました。
大神(おおみわ)神社のご神体である三輪山に、きれいな秋雲がたなびいていました。
大神神社に参りました。
「ブエン・カミーノ!」と声をかけたくなるような光景でした。のどかな秋晴れの一日でした。
歩いて伊勢参りのその6は、天理から山の辺の道を桜井まで歩きました。16キロほどありました。ほぼ平たん路とはいえ、久しぶりのロングウォークとなりました。
スペインのサンティアゴ巡礼路を歩いているかのようでした。前にも後ろもハイカーが。そしてすれ違う人も。歩いていることの楽しさがあふれていました。
大神(おおみわ)神社のご神体である三輪山に、きれいな秋雲がたなびいていました。
大神神社に参りました。
歩いて伊勢参りの旅は、暑い日は敬遠しているうちに3カ月がたとうとしています。「ことし最後の夏の1日」となりそうなまだまだ暑い中を山の辺の道・北ルートの円照寺から弘仁寺、白川ダムを通って石上神宮までの12キロほどを歩きました。
ピンクのシュウメイギクが咲いていました。
訪れる人もない山寺といった風情の弘仁寺ですが、重層のどっしりとした本堂がありました。
石上神宮の一番の人気者です。参道を闊歩しています。
梅雨が明けたらガンガン照りでした。お伊勢参りの4回目は、奈良市街から南を目指しました。
大阪・玉造を出発した伊勢本街道と合流しましたが、本街道はJR万葉まほろば線とほぼ平行にまっすぐ変化のない道を南下します。
わたしはちょっと外れて山の辺の道・北ルートを歩きました。天理からの南ルートほどには見どころはありませんが、東海自然歩道でもある静かな道でした。
ゴールは、ちょっと短いですが天理との中間点となる円照寺でした。山の中にたたずむ趣のある寺でした。
山の辺の道はよく整備されていました。あちこちに句碑がありました。
「かるかたのたかまとやまをたかみかも いてくるつきのおそくてるらむ」(大伴坂上郎女)
夏空が広がりました。向こうが生駒山系です。
昼飯は近鉄奈良に戻って食べました。
ギンギンに冷えた生ビールといただきました。
歩いてお伊勢さんの3回目は、木津から奈良街道・終点の東大寺転害門へと歩きました。
旧道からは外れていても車でなら何度も走ったことがあるルートです。
ところが頼り切って歩いていたスマホのマップがダウンして、州見台(くにみだい)で道に迷いました。雪山と違って遭難の危険はありませんが、夏の日のリングワンデリングで干上がりました。
歩いたおかげで旧奈良監獄のレンガ造りのレトロ建築ともめぐり合いました。
明治の末に9年間だけ存在した大仏鉄道の遺構もありました。
1300年余の時を越えて佇む東大寺創建当時の大門、転害門です。ここが奈良街道の終点です。
門が3つ、並びました。
昼飯は、迷い込んだ(?)ガーデンモール木津川の「来来亭」で、念願の葱ラーメンでした。うまかった!
歩いてお伊勢参りの2回目です。JR城陽から奈良線とつかず離れずで木津まで歩きました。奈良までのつもりが、すでに18.5キロも歩いていました。
梅雨の中休みです。街道歩きには幸いなことに、からりとは晴れ上がりませんでした。それでも暑かったです。
半袖のTシャツ姿でした。家に帰ってシャワーを浴びてびっくりしました。首と腕に、くっきりと日焼けの段差ができていました。これからの伊勢参りの旅には、日焼け対策が必要です。
奈良街道の長池の宿辺りを歩いていると、「カン、カン」と踏切の音がしました。路地をのぞき込むと、みやこ路快速が通過しました。現代の飛脚か早馬ですかね。
青田の中をブルーの電車がさっそうと横切ります。
お伊勢さんに、もう一度、参ろうと思います。
きっかけは単純です。先日のNHK「ブラタモリ」の伊勢神宮再放送で、近江友里恵アナが「修学旅行のとき以来」と話していました。わたしは修学旅行以来、近くは通っても参っていません。
古い写真です。京都市立葵小学校の6年生のわたしが写っています。内宮の前です。昭和36(1961)年のことです。ちょうど60年前ではないですか。ならば「還暦伊勢参り」とまいりましょう。折角ですから、わが足で歩いて。
伊勢本街道は、大阪・玉造を出発して暗峠を越え、奈良、榛原、奥津と歩んでいきます。京都人ならまずは東海道を下ったのでしょうが、わたしは奈良街道を奈良まで行き、伊勢本街道と合流しようと思います。
1日目は、宇治川にかかる観月橋をスタートして、城陽まで歩きました。
「明治天皇御駐輦所(ごちゅうれんしょ)観月橋」の碑は、明治天皇が明治10(1877)年の関西行幸で訪れたことを記しています。
鉄ちゃんとしては、並行してかかる近鉄京都線の観月橋(正式には澱川橋梁)に目が向きます。昭和3(1928)年に奈良電(現在の近鉄)のために架けられた、橋げたのない巨大トラス橋です。
宇治川を渡ると、豊臣秀吉が巨椋池(おぐらいけ)を南北に貫いて築いた小倉堤を進みます。
街道から路地をのぞくと、堤の上を歩いていることがわかります。
大きな松の木が1本あるだけで、旧街道の趣があります。
それにしても暑い1日でした。
伊勢までは大阪・玉出から160キロ。京都からでもさして変わらないでしょう。スペインのサンティアゴ巡礼では毎日20キロ以上を歩いていました。もはやそんな元気はないですので、ゆっくりと、区切り区切りに歩みを進めたいと思います。
熊野古道・中辺路を歩く3日目(2020/03/25)です。
湯の峰温泉からバスで前日の地点まで戻り、発心門王子、伏拝王子を通っていよいよゴールの熊野本宮大社に達する16キロほどのコースです。
この日も良い天気でした。古道に咲く満開の桜も楽しみました。
伏拝(ふしおがみ)王子までやって来ると、初めて熊野本宮大社の大斎原(おおゆのはら)を見ることができます。かつて大社があった熊野川沿いの社地です。巡礼者はここで伏して拝んだのです。
サンティアゴの道にも、モンテ・ド・ゴソという、初めてサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の3本の尖塔が臨める丘があります。
デュアル・ピルグリムの認定を受けた後、大斎原を散歩しました。春の陽ざしを浴びて、満ち足りた気分でした。
熊野古道とサンティアゴ・デ・コンポステーラの道の両方を踏破したデュアル・ピルグリム(巡礼者)に認定されました。
そのホームページにも紹介されています。
サンティアゴは、2016年8月25日にサン・ジャン・ピエド・ポーから歩き始めて、9月30日にサンティアゴ・デ・コンポステーラに到着。
熊野古道は、2020年3月23日から3日かけて滝尻王子から熊野本宮大社まで歩きました。
https://dual-pilgrim.spiritual-pilgrimages.com/taya-nobutomo/
こちらのホームページには、すべてのデュアル・ピルグリムが登録されています。
熊野和紙の巡礼達成証です。
記念のピンバッジをいただきました。サンティアゴの道の象徴であるホタテ貝と、熊野古道の八咫烏(ヤタガラス)がデザインされています。
サンティアゴ・デ・コンポステーラの事務所でも「熊野を歩いたことがある」と話すと、証明するクレデンシャルがないので承認はされませんでしたが、ピンバッジをくれました。宝物が2個になりました。
熊野古道・中辺路の2日目は、古道沿いのバス停から竜神バスに乗って半時間ほどの湯の峰温泉で泊まりました。
ネット予約した「伊せや」は、バス停から橋を渡ったすぐにところにありました。「創業安永元年(1772)」という老舗旅館です。源泉かけ流しの素晴らしい温泉です。
湯治場で、素泊まりを基本としています。このために「食事はワンプレート」とうたっています。そのためか、「ほとんどが外人観光客」だそうですが、お気の毒にこの夜の宿泊客は日本人3人きりでした。
夕食(1200円)は、給食弁当のよう。承知してましたから、文句はありません。ちょっと冷めてますが、お味の方はなかなかのものでした。
朝食(800円)も、これで十分です。卵が付いていたので、生卵だろうと割ったら、ゆで卵でした。
部屋もきれいで、独りで泊まるには十分でした。1泊2食7100円は、満足ものでした。
目の前には公衆浴場もあります。
川原では、何人かの人がたむろしています。
柵の中の温泉に卵をつけて、ゆで卵を作っているのでした。
すこし遡ると、「つぼ湯」があります。
30分間貸し切りで入浴できるそうです。
ここが小栗判官のハッピーエンドの地とは知りませんでした。
小栗判官は、熊野九十九王子を歩いた紀州路でも、何度かその名前を聞いていました。
熊野古道・中辺路の巡礼2日目は、高原から熊瀬川王子まで20キロほどを歩きました。
ルートの前半は山道を。木々の間にたたずむ牛馬童子像や、地蔵など見どころもあります。
3時間ほど樹林帯を歩いて、中間地点の近露(ちかつゆ)の集落に向けて下りました。
継桜王子は、石段を上った先の杉の大木にいだかれています。