ライプツィヒ 滝廉太郎とカール・マルクス

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 「荒城の月」や「花」の作曲家、滝廉太郎は、ライプツィヒで学んだことを知りました。それを記念したプレートが、廉太郎が暮らした町にありました。ガイドブックなどでもあまり紹介されていません。ちょっと探してやってきました。

 廉太郎は1901年に官費留学生としてライプツィヒにやってきました。メンデルスゾーンが創設したフェーリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ音楽大学に入学しますが、ほどなく肺炎を発病。わずか1年でここを去り、帰国後の03年には故郷・竹田で亡くなっています。

 今はカフェになっているビル(多分、建て替えられたもの)の前に、日本語だけを記したプレートはありました。
 没後100年して、このプレートは建てられました。

 Rentaro-Taki-Denkmal
 Ferdinand-Rhode-Str./Ecke Mozartstr. 6, Leipzig

 反対側の町角です。こちらの方が、当時の面影を伝えているのでしょう。

 「音楽地区」と呼ばれるそうです。通り名にはベートーベンからモーツァルト、テレマンとにぎやかです。

 すぐ近くには、廉太郎が学んだ現在のライプツィヒ演劇音楽大学がありました。チェロを担いだ女子学生が通り過ぎました。

 次は「メンデルスゾーン・ハウス」に行こうと歩いていると、突然、見覚えのある顔に出くわしました。近づいて確かめると「Das Kapital」の文字が刻まれています。
 ライプツィヒは古くから印刷の発達した町です。カール・マルクスの「資本論第1巻」もここで出版されました。
 「マル経(マルクス経済学)の牙城」といわれた大学の経済学部生としては、多少はこれをかじろうとした若き日もありました。
 今となっては、ドイツ語の地名が発音できる(といってもドイツ語はきまじめにすべてを発音するので意味はわからなくても読める)か、せいぜいohne(without)とmit(with)の違いがわかる程度です。でもウィーンでは通じた「no gas」より、こちらでは「ohne gas」の独英チャンポンの方が通じます。ペットボトルの水を買うときの話です。こちらで何気なく水を買うと、これがものすごい炭酸入りで、飲めたものではありません。

 ドイツで2番目に古いライプツィヒ大学も、東ドイツ時代はカール・マルクス大学と呼ばれていました。
 その町のニコライ教会に集まった人々の静かなデモから東ドイツの民主化を求める運動が始まったのも、皮肉といえます。

 滝廉太郎は今も日本で愛されてますが、マルクスの評価はどんなものなんでしょうか…。 

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自分でつくる シシリアン・ルージュのベーコン巻き

 シシリアン・ルージュにベーコンを巻いて焼きました。
 きょうの弁当の隅にいれてもらいました。黄色い卵焼き、緑色のキュウリと並んでます。昨日、自分でつくった弁当とは彩りが違います。

 3個が赤くなりました。

 シシリアン・ルージュは、熱を加えるとうまさが増す調理用の品種です。

 ベーコンがこんがり焼けて、いい具合です。

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