ウィーンで4泊したホテル「ドゥ・フランス」です。
作曲家のブルックナーが定宿にしていたそうです。1872年に創業した老舗の「5つ星」ホテルです。
リンク沿いのショテントアー(Schottentor)にあり、フォルクスオパーの観劇で帰りが遅くなった夜や、グリッツィングには路面電車1本で行くことができて、とても便利でした。
団体のツアーもたくさん泊まっているようでしたが、ロビーや朝食の食堂で出会うこともなく、いつも静かでした。
部屋もさすがに立派でしたが、ツインルームのベッドは意外と小さく、こんなところでこちらの巨体のオバさんたちは困らないのかなと不思議でした。
(2005/05/17)
地下鉄は地下深くを走る
地下を走るから地下鉄ですが、東京の大江戸線も顔負けの深いところを走ってます。いざとなれば、線路はそのまま核シェルターにでもなるのでしょうか。
エスカレーターもものすごく長く、ものすごくスピードが速いです。それなのに犬も平気で乗ってます。慣れとはこわいものです。
ここはB線の「ナーメスティ・レプブリキー駅」で、次はA線と交差する「ムスティーク」、ホテルは二つ先です。何回も乗っているうちに、チェコ語の車内放送も、少しはわかるようになりました。
(2005/05/20)
橋上パフォーマンス
カレル橋の上はホコ天になってます。橋というより、広場のにぎわいです。あちこちからにぎやかな音楽が聞こえてきて、静かに客の似顔絵を描いている人がいて。
とにかく人が多いのに驚かされます。外国人観光客(といってもだれが外国人かあまりわかりませんが)から、修学旅行生に遠足の子供まで。
(2005/05/19)
モーツァルトが愛した町
モーツァルトが愛した町です。1787年、郊外にあるベルトラムカ荘滞在中に「ドン・ジョヴァンニ」が作曲されました。そして、このエステート劇場でモーツァルトの自らの指揮で「ドン・ジョヴァンニ」が初演されました。こじんまりとしたかわいい劇場です。
映画「アマデウス」も、大部分をこの町で撮影しています。
ちなみに「f」をデザインした水色の旗は、「プラハの春音楽祭」のシンボルです。そして、歩き疲れて座りこんでいるのが同行者です。 (2005/05/19)
カレル橋のザビエル
旧市街と城を結ぶカレル橋は1357年、カレル4世時代に建築が始まり、1402年に完成しました。欄干には30体の聖者がならんでいますが、そのひとつがイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルです。
その聖人をかついでいる男性は、まげあり、ダンゴ鼻あり。いかにも日本人(東洋人?)をイメージしているようです。 (2005/05/19)
路地裏まで好きになる
路地裏までこのとおりです。
石畳の細い道に車は入ってきません。ごみひとつ落ちてません。玄関をでるとそこは路地、共用の廊下の感覚なんでしょうか。 (2005/05/19)
プラハのペンキ屋さん
朝から仕事に精が出るペンキ屋さんです。なにやら口ずさみながら楽しそうに仕事をしています。
どこを歩いてもきれいな町の秘密がわかったような気がしました。古くなれば補修する。たったそれだけのことなんです。
日本では、とんと見かけなくなった光景だと思いませんか。
(2005/05/19)
ビロード革命の舞台
1989年11月17日に始まった民主化要求デモは、連日10万人を超える人々がこのヴァーツラフ広場(広場というが、実はプラハ市内中心部の大通り)を埋め尽くしたというこてです。
いまでは、そんなことは昔話のようににぎやかなショッピング街でした。 (2005/05/18)
Verwandlung
カフカの「変身」(読んだことはありません)が、マルクス「資本論」の「貨幣の資本への転化」の「転化」と同じVerwandlungであることを、大昔に学びました。それ以上は知りません。
プラハ城内の「黄金小路」は、かつて練金術士が住んで、金を作りそうとがんばったところだそうです。左から2つ目の青い家にはフランツ・カフカも住んだことがあります。
とはいえ、中国人がほとんどだった観光客は、「カフカ」のプレート(左下)には気が付かないように通り過ぎていました。 (2005/05/18)
そのとき衛兵は
プラハ城の正門です。門外のフラチャニ広場にはものすごい数の観光客が押し寄せてます。門内の衛兵たち(右側)は、どうしたものかと相談しています。
といのはウソで、正面では左下の写真のようにイケメンの衛兵は何事もないように正面をみて立ってました。 (2005/05/18)