京の都と高野山を結ぶ「高野参詣道」のひとつです。
東高野街道は、石清水八幡宮(八幡市)から洞ヶ峠を越えて、生駒西麓を南へ進み、石川をさかのぼって河内長野までの大阪を南北に縦貫する街道です。
四国88か所のお遍路はまだ途上です。
満願の後には、高野山へのお礼参りがあります。お遍路と並行して、高野山の麓まで歩いておこうと思います。
京の都と高野山を結ぶ「高野参詣道」のひとつです。
東高野街道は、石清水八幡宮(八幡市)から洞ヶ峠を越えて、生駒西麓を南へ進み、石川をさかのぼって河内長野までの大阪を南北に縦貫する街道です。
四国88か所のお遍路はまだ途上です。
満願の後には、高野山へのお礼参りがあります。お遍路と並行して、高野山の麓まで歩いておこうと思います。
西国街道を上るのも3回目です。すっかり暖かくなって、満開の桜とも遭遇しました。
箕面市の国道171号と新御堂筋の交差点北東にある「木戸ケ池緑地」です。
高槻市にある「今城塚古墳」の内壕です。北側は水をたたえています。
前回ゴールの阪急・石橋駅からわが家近くのJR島本駅まで、国道171号にそってほぼ29キロを6時間かけて歩きました。
西国街道を京に上ります。2回目は西宮・香櫨園から池田・石橋まで約20キロを歩きました。
午前中の用件が思いのほか早く済んだので、急いで身支度して出かけました。もう春の気温です。Tシャツの上に薄い登山シャツ1枚を着ただけですが、汗をかくほどでした。念のためザックに入れておいたダウンジャケットは出番がありませんでした。
西国街道は、西宮市の中心部では何の表示もありませんでしたが、国道171号を横切って門戸厄神に近づいたあたりからそれらしい街道筋の名残となり、いたるところに「西国」の表示がありました。
3月下旬のような暖かさだった昨日から一転、真冬の寒さに戻った1日でした。急に思い立って、西国街道を京に向けて歩き始めました。もうすぐ、四国・お遍路の続きも再開したいです。
出発は神戸・三宮です。JRの新快速でやってきて東口から出ました。そこから東に向かう道の出発点に「旧西国街道」の石碑がありました。まだ新しいようです。大きな案内板もあって、西国街道を説明しています。
午前10時ちょっと前です。ここから出発です。
仁和寺の境内も、ソメイヨシノは満開です。
「京都三弘法まいり」のもう一つの寺、御室の仁和寺です。兼好法師の「徒然草」に出てくる「仁和寺の法師・・・」の、あの寺です。
ミツバツツジの紫をバックに咲きます。
強い風が吹くと「落下盛ん」です。
ところが、肝心の御室桜は、まだ「つぼみふくらむ」です。
背が低い八重桜で、開花は遅いです。
境内には、御室八十八霊場があり、ミニお遍路を巡ることができます。
これで四国お遍路を再開する準備は整いました。
仁和寺
京都市右京区御室大内33
075-461-1155
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二条城にやってきました。小学生以来。あるいはもっと小さかったか。ということは半世紀ぶり!!新しいカメラを手にすることがなかったら、わざわざやってこなかったでしょう。
国宝・二の丸御殿です。外人観光客らでにぎわってます。
早咲きの桜が咲いてます。「カンヒザクラ」とプレートが。「寒緋桜」でしょうか。
晴れたり曇ったり、ちょっとポツリときたり、安定しない天気です。それに結構寒いです。
二の丸庭園です。このあたりの石に腰掛けた少年の写真がアルバムにあったはずです。
本丸楼門をくぐります。
天守閣跡から比叡山をあおぎます。
内堀はきれいな水をたたえています。
もちろん世界文化遺産です。
正確には「元離宮二条城」というそうです。
京都市中京区二条堀川西入ル二条城町541
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六波羅蜜寺近くのカフェ「柴洋」でこの日曜日、昼飯を食べました。カウンターに載っていた京都本をくっていると、「あじき路地」が。かつて、テレビで紹介されていたのを覚えていた相方が「近くですか?」と聞くと-。ご主人がていねいに地図を書いて教えてくれました。
そこに住むことを条件に、ものづくりに携わる若者が借り受けて工房なんかにしている長屋が連なる「あじき路地」です。
「にちようびのパン屋」は、ここだけ戸を開けている店でした。上がり込んで「チーズパン」なんかを買いました。
喫茶店でしょうか。室内から話し声は聞こえました。
こちらは??
何も下調べをしてませんでした。もう少し予備知識があればよかったです。
井戸はまだ現役なんでしょうか。
お地蔵さんはきれいに掃除され、花が飾られています。
長屋には家庭風呂なんてないのでしょう。銭湯は必需品です。向こうに「大黒湯」の煙突がそびえます。
1筋北には「田中図子」がありました。路地(ろうじ)は行き詰まりの袋小路ですが、図子(ずし)は貫通してます。
宮川筋側の出口は、2階建ての家の下を抜けています。北側、南側と分けて図子の住民の表札が並んでいます。
宮川町は京都五花街のひとつです。
舞子さんもあちこちに、ということではなくて、あちこちにある流行の「舞子変身処」で着付けをしてもらった素人さんです。
あじき路地
京都市東山区大黒町通松原下ル2丁目山城町284
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鉄道遺跡を訪ねました。関西にも鉄道形成時代の面影を伝える遺産が数多く存在します。でも、ここはナンバー1スポットでしょう。近くは何度も通ってますが、初めてです。
明治初期の過去から、平成の現代に向けて開けた空間です。
「これやこの行くも帰るも別れつつしるもしらぬもあふさかの関」(蝉丸法師)で知られる逢坂関。ここを貫いて日本人技術者の手のみで「逢坂山隧道(ずいどう=トンネル)」は掘られました。1878(明治11)年11月に着工し、1880(明治13)年 6月に竣工しました。
日本初の山岳トンネルで、現存する最古の鉄道トンネルの東出口は、大津市の西端、国道1号沿いに残っています。右は、後に複線化のために掘られたトンネル跡です。
汽笛一声新橋を~で走り始めた汽車は、ここを抜けて京都-大阪に向かいました。
「唐人澪(とうじんみお)」は、江戸時代の朝鮮通信使が利用した公的な水路のことです。大阪・大正あたりの尻無川(しりなしがわ)がそれにあたります。
朝鮮人街道を鳥居本から草津まで歩いたつながりで、海からの上陸地点を散歩しました。
京セラドーム大阪の横を流れる尻無川を集団でのおぼってくる水上バイクの一団です。江戸時代の大阪人も、こんな風にのぼってくる通信使の大船を見に集まったそうです。
朝鮮人街道を鳥居本から野洲まで歩いたあとは、さらに中山道を京に向かいました。東海道の石山までの道のりは、中山道をお江戸日本橋から歩いてきた友達と二人連れでした。
天気は悪くはないですが、まだまだ肌寒い風が吹き、ザックの底から手袋を取り出しました。
【11:47】
草津宿の追分道標です。ここで東海道と中山道が分岐します。