「朝鮮人街道(ちょうせんじんかいどう)」は5月末に安土-近江八幡間を歩きました。よく晴れ上がった3日(文化の日)に、急に思い立って続きの近江八幡から中山道と合流する野洲までの10キロほどをたどりました。
写真はゴールの野洲で中山道と合流したところです。途中で妓王寺に回り道したりで、歩行距離はほぼ15キロ、28884歩でした。久しぶりのウォーキングに、足にタコができました。この秋はあまり出歩いていなかったと、反省です。
カテゴリー: 京の路地、図子、都への道
京街道を上る 粟田口を訪ねて三条通りを歩く
「京七口」のひとつ、粟田口(あわたぐち)です。近江国大津から山科を経て三条に至る東海道の終点にあたります。元は豊臣秀吉が築いたお土居があった現在の河原町三条あたりにだったはずですが、いつのころからか三条大橋の東方に粟田口はあります。三条口とか大津口とも呼ばれます。
粟田口の石碑は、三条神宮道を少し下がった(南に行った)ところにあります。神宮道のはるか先に平安神宮の大鳥居が見えます。暑くなった日差しをあびて6日、三条通を歩きました。
京街道を上る 朝鮮人街道 安土から近江八幡まで
京街道と呼ばれた都に上る街道は各地にあります。「朝鮮人街道(ちょうせんじんかいどう)」は、近江国(滋賀県)を通る中山道の鳥居本宿(彦根市)から分岐し、彦根、能登川、安土、近江八幡、野洲を経て守山宿で再び中山道と合流する脇街道です。徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し凱旋した街道です。江戸時代には将軍上洛に利用され、朝鮮通信使が通行したためこの名があります。
五月晴れとなった29日、その一部の安土から近江八幡まで約6キロを歩きました。
10:25=JR安土駅前には、この地に安土城を築いた織田信長の像が建っています。胴長短足なのは、本人がそうだったためなのでしょうか?
京街道を上る 鞍馬街道~鞍馬寺から鞍馬口へ
「京七口」のひとつが鞍馬口です。ここから都を出て、鞍馬街道を通って鞍馬寺に参拝したのです。後白河法皇も、出家して大原・寂光院で過ごす建礼門院徳子のもとを訪れる「大原御幸」の際に通ったとされます。
五月晴れとなった22日、鞍馬寺から鞍馬口まで新緑の中を約10キロを歩きました。
11:04=スタートは洛北・鞍馬寺です。好天に恵まれ、観光客もやってきています。
京街道を上る 「山中越」は石仏ロード 荒神口へ
「京七口」のひとつが荒神口です。河原町通の丸太町と今出川の中間に、現在もその名の交差点があります。大津・南志賀町から山中町を経て北白川を通り都へと上った山中越(志賀越)の終点です。
長かった連休最後の一日、京都も夏日になった晴天の下を歩きました。
10:54=山中越は石仏ルートでもありました。
山中町に残る「重ね石」です。2つ重ねたような岩肌に、小さな仏像が4体、彫られています。道中を往来した旅人の安全を祈ったものだと考えられているそうです。
京街道を上る 京見峠から長坂口へ
「京七口(ななくち)」というのは、京に上る街道の京への入り口の総称です。
これまでに歩いてきた伏見街道には伏見口、竹田街道には竹田口、鳥羽街道や西国街道には鳥羽口、山陰道には丹波口、鯖街道の若狭街道には大原口がありました。時代によってその数は異なりますが、「五近七道」というあたりから七口となったようです。必ずしも「七」はsevenではなく、someのようです。鎌倉時代後半から使われてきたようです。
後に豊臣秀吉が、都改造の一環として、都の周囲を囲む「御土居」を築きました。その土塁に開いた「口」が、「七口」という表現を広げたようです。
そのひとつが「長坂口」です。その存在を、最近知りました。連休の谷間ですが、休みにして、さっそく歩いてみました。
若狭から鯖を運んだ鯖街道のひとつに、若狭・小浜から名田庄、美山、周山を経て高雄から京都に至るのが周山街道です。その途中から杉坂に入り、京見峠(長坂峠)を越えて鷹峯に下り、長坂口に至るのが長坂越です。
12:49=長坂口のあったあたり(京都市北区旧土居町)に「御土居」の一部が残っています。台形の断面の盛り土の右が洛外、左が洛中です。ここが、今回のウォーキングのゴールでした。
京街道を上る 山陰道 亀岡から明智越を丹波口へ
天正10年(1582)6月1日亥の刻(午後10時)、明智光秀は丹波・亀山城(亀岡城)を発った。織田信長の命で、備中・高松城を水攻めしている羽柴秀吉の援軍として山陽路を行くはずだった。それが老ノ坂を越えた。京までの山陰道の道のりは5里(約20キロ)。途中、沓掛で1万3000の軍勢を休息させ、桂川を渡ると火縄に火を転じさせた。「敵は本能寺」という軍令が発せられた。
そんな史実が残る山陰路を、亀岡から京都まで歩きました。全行程35,814歩という、なかなかの行軍でした。
9:34=明智光秀が城主だった丹波・亀山城の桜です。
京街道を上る 番外編 大津街道を東海道へ抜ける
大坂(大阪)から京街道を上り伏見の宿に着きました。その後、、伏見街道、竹田街道を京に上りました。徳川幕府が開いた「東海道五十七次」は、伏見街道から東にそれて、山科を経て大津の手前の髭茶屋追分まで続いてます。小野小町に恋した深草少将の百夜通いの道とも重複しています。今回は、深草少将ゆかりの墨染・欣浄寺 (ごんじょうじ)から歩きました。
2010/03/27 12:02=小野小町ゆかりの寺、随心院です。大玄関の内部から薬医門越しの桜です。
京街道を上る 番外編 竹田街道を京都市電伏見線跡に沿って
伏見宿から京へ上る「京街道」には、すでに歩いた伏見街道の西側を並行する竹田街道というのがありました。日本最初の電車路線である京都市電の伏見線(塩小路高倉-中書島間、7.1キロ)が、ほぼ竹田街道に沿って走ってました。京阪・中書島から歩きました-。
10:32=淀川派流の伏見港です。江戸時代に拓かれた竹田街道は、京七口のひとつ、竹田口から竹田村を通って伏見港までつながってました。
京街道を上る 番外編 淀から鳥羽街道を歩く
京へ上る「京街道」はいくつもあります。淀(京都市伏見区)から桂川の左岸にそって北上して鳥羽を通って京七口の鳥羽口、羅城門に至るのが鳥羽街道です。。後白河法皇らが熊野詣に旅立つときにも通った道です。
久しぶりに晴れ上がった日曜日(14日)、淀から歩きました。
10:39=桂川の左岸を歩きます。「初めての輪行」でわたしも自転車で走ったことがある京都八幡木津自転車道です。