「数」ある欧州旅 『26』

 スイス・モントルーのレマン湖畔にかっこいい像が立ってました。フレディ・マーキュリー。それ、だれ?
 ロックとは縁がありません。クイーンのボーカリストでした。最後の作曲、レコーディングをモントルーのスタジオで行ったそうです。
 肝心の「26」は、幟の中です。

 わたしが好きなのはこちら。
 ドイツ・ライプツィヒで6月に行われる「バッハ・フェスト(音楽祭)」で、バッハ・コレギウム・ジャパンの「マタイ受難曲」を聴きました。バッハの仕事場だった、そして地下に眠る聖トーマス教会の中央から2列目の特等席でした。

 「26」が2カットしか見つかりません。そこで、用意していたオールマイティ―の出番です。
 ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会でダヴィンチの「最後の晩餐」を鑑賞しました。借りた音声ガイドには、0から9までの数字が並んでいます。日本語が26であったかどうかは忘れました。

「数」ある欧州旅 『25』

 「25」は、都市交通の3つが並びました。

 ウィーンのトラムです。古い町には、古くて丸い車両が似合います。それにしても「年収25%プラス」って、何の広告だったのでしょうか。

 ザルツブルクのバスです。天気が良いので、郊外のアニフという村まで大指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤンの墓参りに出かけました。
 カラヤンが暮らした村の教会の片隅にある墓は、驚くほど質素でした。

 ベルリンのSバーンのブランデンブルク門駅です。門は、東西分断と統合のシンボルです。

 ブリュッセルで飲んだビールです。ベルギービールは、銘柄に合わせたグラスでチビリチビリとやるのが流儀です。量も「25cl」とちょっと少なめです。clはセンチ・リットル。日本の250mlと同量の単位です。

 スペイン・サンティアゴ巡礼の都市、ログローニョです。リオハ・ワインがおいしいバルが並んでました。

 スイス・グリンデルワルトには、日本語観光案内所がありました。モンベルの店もありました。日本人とも出会いました。

「数」ある欧州旅 『24』

 「24」もスペイン・サンティアゴ巡礼のサリアからのカットです。足が痛くて歩けなくなり、1日、休養日としてのんびりとしました。
 夕刻になって散歩に出かけると、「リタイア3人組」の一人、Kさんとばったり。「食事にしますか」とふらふらと歩いてrenfeのサリア駅までやって来ました。
 駅前のホテル・レストランで一緒に食べたハモン(生ハム)が、この旅でのサイコーの味でした。

 欧州のトラムは、ほとんどがフツーは検札はありません。無賃乗車でもわかりません。ところが、私服の男性が、抜き打ちで検札を始める場面に遭遇したこともあります。そのとき、乗車券を持っていないと、有無をいわさず定期1カ月料金分ほどの罰金を徴収されます。
 わたしは、ウィーンでは24時間有効のチケットを買っていました。

 プラハの街角です。ギリシャ料理のギュロスが、終日営業でした。それだけ売れるということなのでしょう。

「数」ある欧州旅 『23』

 ネタが尽きてきました。「23」は、3カットをやっと、しかも目立たない数となりました。

 スペイン・サンティアゴ巡礼では、クレデンシャルという巡礼者のパスポートをもって旅します。スタンプラリー帳ともいえます。泊まったアルベルゲ(巡礼宿)や、訪れた教会、ビールを飲んだバルなどでスタンプを押してもらいます。それが歩いた証ともなります。
 旅も終盤、サリアのサンタ・マリア教会には、出発からほぼ1カ月が過ぎた9月23日日に着きました。足が痛くて歩けなくなり、もはやここまでかと弱気にもなりました。

 初めてウィーンを訪れたのは、55歳になってリフレッシュ休暇が取得できた年でした。
 名物のウイナー・シュニツェル(肉を薄く延ばしたフライ)を食べました。フィグルミューラー・ベーカー通り店です。左のメニューと、右のレシートがうまく一致しませんが、とりあえず「料理は23時まで」ということで。

 スイス・ミューレンで泊まったホテルでは、カクテル・パーティーに招待されました。言葉も不自由で気後れして、窓から暮れゆくアイガーを眺めて過ごしました。出席しておけばよかったです。

高槻 「彩色ラーメンきんせい」の冷やし塩ラーメン

 ブルブルにかいた汗をシャワーで流し、そう快になってジムを出ると、酷暑が戻ってました。冷たいものをと探して阪急・高槻市に近いきんせいの「冷やし塩ラーメン」(780円)に落ち着きました。
 良く冷えた、澄み切ったスープです。魚介の出汁に塩が効いてます。香味油は、海老油か生姜油の選択でした。ショウガを頼みました。すりショウガもはいっていて、さっぱりさをひきたてています。

 麺は、これも冷やらしくツルリとしています。白ねぎがよいアクセントになっています。

 なにわともあれ、スタートはコチラでした。よく冷えたクラシックラガーでした。

 これまでのきんせい
 最初はここが本店でしたが、今では10店舗を超えるチェーン店になってます。

 彩色ラーメンきんせい 高槻駅前店
 072-682-8956
 高槻市北園町18番1 コーケンビル1F103号

「数」ある欧州旅 『22』

 スイスのミューレンは、アイガー、メンヒ、ユングフラウのベルナー・オーバーラント3山を目の前に見ることができる標高1,650mの村です。この村に通じる公道はありません。
 わたしは麓のラウターブルンネンからまずロープウエーで、さらにラウターブルンネン=ミューレン山岳鉄道に乗り換えて行きました。
 「地下鉄の車両はどこから地下に入れるのか」とうのは有名な漫才ネタですが、「22」を付けたこの車両はどうして運ばれたのでしょうか?

 プラハの城には黄金小路があります。王が錬金術師(?)を住まわせた長屋が残っています。「No22」の青い壁の家には、かつて作家のフランツ・カフカが暮らしたことがあるそうです。

 プラハのトラムは、再度の登場です。マラーストラナ広場から少し行ったところにトラムがビルの1階部分をくぐる個所があります。ここだけは単線になってました。

 冷戦時代のベルリンで、東西の接点だったチェックポイント・チャーリーです。「壁の博物館」は、土産物売り場のようでもあり、「壁」の破片も売り物として並んでました。10時まで営業してました。

自分でつくる トマト・ハンバーグパスタ

 冷蔵庫をあさって昼飯です。
 ハンバーグが1個、冷凍されてました。たくさんいただいたミニトマトは、ソースにして保存してました。これだけあれば十分です。

 ボリューム満点。トマトの酸味も効いたおいしいパスタになりました。

 ハンバーグを電子レンジで温めて、パスタの上に載せました。
 ニンニクで香りをつけたオリーブオイルでトマトソースを戻し、白ワインで緩めました。刻んだバジルも入れました。飾り用のバジルも用意してましたが、忘れてました。
 

「数」ある欧州旅 『21』

 ベルギーといえばチョコレート。ブリュッセルの世界で最も美しい広場のひとつといわれているグラン・プラスに面して、GODIVAの店もありました。「1926」ばかりが目立って、肝心の「21」は控えめです。

 ドイツ・ドレスデンで見かけた信号柱に21とありますが、意味はわかりません。
 わたしがレンズを向けたのは歩行者用信号のデザイン「アンペルマン」の方でした。旧東ドイツで使われていましたが、東西統一後もそのかわいさに親しみを寄せる人が多く、生き残っています。ベルリンには、アンペルマン・グッズを集めたショップもありました。

 スペイン・サンティアゴ巡礼では、多くはドミトリーのアルベルゲ(巡礼宿)に泊まりました。でもそれが続くとプライバシーもなくて疲れるので、1人部屋のペンシオンやホテルも利用しました。
 ログローニョのペンシオンは、飲み屋街の路地にありました。バルを3軒、ハシゴしてくつろぎました。

 わたしの2回目の巡礼は、バルセロナからパンプローナまでrenfe(スペイン国鉄)でやってきて、フランス・バイヨンヌ間を往復するバスに乗り継いでスタート地のサン・ジャン・ピエ・デ・ポーに向かいました。
 巡礼4日目に、再びパンプローナの旧市街を歩きました。

 

「数」ある欧州旅 『20』

 スペイン・サンティアゴ巡礼から2つ。
 巡礼の朝は早いです。この日も6時半にはプエンタ・ラ・レイナのアルベルゲを出発。開いていたカフェでクロワッサン、スーモ・ナハーラ(オレンジジュース)、カフェ・コン・レチェ(カフェオレ)とお決まりの朝食を取りました。さて、歩くかと外に出ても、まだあたりは真っ暗です。
 スペインは、ヨーロッパでもほぼ西の端に位置するのに、サマータイムもあって朝日が昇るのはこの時期は8時半ごろでした。

 巡礼も終盤近く。オ・セブレイロの峠の村で見つけた「貸し自転車」の広告です。これに乗って、20キロ先の麓の村、トリア・カステラまで2時間で走り降りることができます。足が痛かったので、かなり誘惑的でした。6時間ほどかけて、自分の足で歩きましたが。

 ウィーンのナッシュマルクトは、通りに沿って市が立ってます。そこで泳いでいたのは「Aale」、まぎれもなくウナギでした。1キロ、20€は高いのか安いのか? 調理法も不明です。まさかかば焼きはないでしょう。

 ドイツ・ライプツィヒの街角です。ウェディングドレスの新婦が通り過ぎました。

 FINNAIRで行くヘルシンキは、日本からは一番近いヨーロッパです。
 ベルリンからの帰り道も、ここで乗り継ぎました。ヘルシンキ・ヴァンター空港は、こじんまりとした空港です。ムーミンや北欧デザインの土産物が素敵でした。

Myメモリー 廃村八丁

 歳をとると、いろんな昔を思い出します。
 芦生の森を歩きました。「廃村灰野」に「佐々里峠」への分岐がありました。この2つのキーワードで浮かんだのが「廃村八丁」です。南西に3時間という佐々里峠のさらに同じほど離れた南西にあります。
 時は1965年秋までさかのぼります。わたしは高校1年生でした。その当時で、八丁はすでに1941(昭和16)年に最後の住民が離れてから24年が立って、廃村になってました。
 土蔵に近代的なビルや富士山、水着姿の女性が描かれたのはいつのことかはわかりません。当時から、知る人ぞ知るスポットでしたが、その土蔵も朽ち果てようとしていました。 

 ネットを調べてみると、それから22年後の「山と渓谷」(1987年3月号)に掲載せれた全景がありました。
 今は、もう存在しないでしょう。

 若かりし日のわたしと、Nくん、Kくんです。では、だれがカメラのシャッターを押したのでしょうか?

 もう1枚にヒントはあるのですが、手前の男性が誰であるかは、記憶にありません。

 この土蔵で泊まったはずです。
 食事の準備です。懐かしい灯油を燃料としたラジュースでコッフェルを熱しています。ご飯は飯盒で炊いたのでしょう。

 これまでのMyメモリー